帝梵

ゆっくり、帰ろう。

 怒っている。
 彼は。
 だから、あちらがその気ならこちらもそれなりの態度でいようと思ったのだ。
 なのに。
「――、……帝釈天」
 半歩先を歩いていた梵天が俄かに立ち止まり、それにやや遅れ気付いた俺も立ち止まり、半歩追い越した彼の身体を振り向いたとき、俺は、彼が俺を呼んだ声のあまりの弱々しさに驚いた。
「……」
「……」
 理由は分からないが怒っているようだった。それも恐らく俺に対して。しかし理由は分からないし、こいつもそれを言おうともしないから、俺はただ黙って。ただ、帰路をふたりで歩いた。僅かにずれる歩幅をそれとなく横目に見ながら、彼と並んで帰っていたのだ。
「――……なんだ?」
 それがどうしてこんなことになっているのか、俺は困惑しながらどうにか声を絞り出した。
 暗く蒼い影の落ちる路を、薄っすらと風が撫でる。彼の白い花のような髪に、黄金色の夕陽が微かに宿って光る。
 腹を立てているものと思い込んでいた彼は、その実、今、睫毛を伏せ、桃色の唇を考え込むように引き結んでいる。頑ななように見えるそこは、しかし不器用そうに僅かに歪んでいた。
「……梵天……」
「……お前は、ほんとうに、――」
 目を上げて、梵天が俺との距離を詰める。
 紫水晶の瞳が近付く。彼が珍しく拳を振り上げたのが見える。珍しい、と思いつつ、一応受ける用意をした。
 ――しかし、思った衝撃は来なかった。梵天の拳は力を失って、俺の肩へ静かに着地した。そして、
「――……ばかだな」
 か細い声は、俺の胸許から聞こえる。訳も分からず、俺はただ彼の体重を受け止めることしかできなかった。
 握り込んだ右手を、弱々しく何度も俺の肩へ叩き付けて、左手で、俺の胸座を掴み上げて。梵天は、首を垂れるように、その秀でた額を俺の胸へ押し付けているのだった。
「……何、を……」
「無茶をするなとは言わない。ただ、……ただ……ばかなことをするな。ばかなことを……」
 梵天は呻くようにそう言った。
「お前は、私とは違うのだから。気付いていないのだろうが――何度言ってやってもお前が理解した試しがないのだが、帝釈天……お前は、独善的で、視野が狭くて、目の前のことに囚われて大局を見失い今までにも何度危うい道を選びかけたことか。その度に何度、何度私達が、……私が……私は、……」
 正直、最初は何を言われているのか分からなかった。しかし、茫然と彼の声へ耳を傾けるうち、ああそうだ今までに何度同じことを言わせてきたのだろうと、俺は漸く思い出してきたのだ。
「…………帝釈天……」
 震える声に名を呼ばれる。
 信じてくれているのだ。その拳が何度も叩き付けてくるのは、胸座を絞め上げもせず縋ってくる手が、泣きそうなほどの慈雨に濡れそぼったような声が、訴えてくるのは。彼が俺に、俺が彼に送るのと同じくらいに返してくれている、真っ直ぐな信頼なのか。
「……すまない」
「口先では何とでも言えるんだ」
「口先だけのものではない! 本当に……反省しているし、反省していたんだ。今までも……何度もお前に諭される度、次からは決して同じ後悔をしまいと……その度に決意してきた。……してきたんだ……」
 言い訳のつもりではない。俺にとっての真実だった。事実をただ彼に伝えたくて、しかしそれが、こんなふうにきっと言い訳にしか聞こえない言葉にしかならないのは、やはり、彼の言うとおり、俺と彼とは違うということなのだろう。
「……なぁ、帝釈天」
「ん……」
「お前は、私のことを何だと思っているんだ」
 ひたりと目が合った。梵天が顔を上げて、いつもの高さで視線が交わっている。
 唐突な質問の意図が汲めず、俺は首を傾げながら思ったままを答えた。
「〝口うるさくて一々細かくて回りくどくて分かりづらい奴〟……?」
「このタイミングで喧嘩を売ってくるとはどういう料簡だ貴様」
「売ってない。お前の質問に答えただけだろう」
「私はそういうことを訊いたのではない!」
 相手の声を、耳に入る前に口で食べてしまえそうな距離で、梵天が吠える。落ち込ませてしまっただろうかと心配はしていたから、いつものように吊り上がった眦を見て、少し安心する。
「お前にとって私は何なのだ、どういう存在なのだと訊ねたんだ! お前は私を一体どんなふうに思っている――⁉」
「どんなふう……?」
 やはり梵天の言うことはよく分からない。補足説明を聞いたところで俺には意味を理解できなかったので、今度は違う角度から、やはり自分の思うままを伝えてみた。
「俺は……お前のことを嫌いではない」
「な、ぁ……っ⁉」
 しゅうっと、薬缶が湯気を噴くような音が聞こえそうだった。元々色の薄い梵天の肌が、見る間に明らかな朱を帯びた。
「そ、そそ、そっ、そ、そういう、こと、を……聞いたのでも、ない……!
 ……が……。そ、その、……わ、私、も……お前のことは……き、らい、では、ない……」
「……そうか」
 違うと言いながらも、これにはこれでそんなふうに返してくるようなところが、やはり憎めないところだと思うのだ。
「……こほん。わ、私が言いたかったのはだな―私はお前を、同じ道を目指す朋輩だと思っている」
 梵天のその声が届いた刹那、すっと、胸の奥が清澄な冷たさを伴って凪いだ。
「もしも……お前も、私のことをそのように、幾許かなりとも思っているのなら。―頼り方くらいは、いい加減に学んでほしい」
 紫水晶の奥に、俺の心の裡が映る。それは、随分前から、お前に預けている、俺の。
「……と。そういうことが言いたかったのだ」
 咳払いをしつつ、自然に梵天の身体が離れてゆく。歩き出した彼の背中を足早に追って、どうにか真横に並んだ。
 舌触りの良い菓子のように、甘く蜜色に煌めく髪が、淡く揺れている。
「……やっぱり回りくどいな」
「お前が鈍すぎるだけだ。まったく……」
「〝俺とお前は違う〟のだろう。今更仕方のないことだ」
「……ふ」
 俺が端的に返すと、彼は何やら、少し楽しげに笑った。
「そうだ、私とお前は違う。違いすぎる―私が補ってやらなくては、やっぱりお前はひとりではだめだな」
 その口調はこちらを親しげに茶化すものだったが、そうとだけ言われるのは心外で、またどうにも我慢も利かず、とうとう、俺は言ってやってしまった。
「それを言うなら、お前こそ俺がいてやらないと駄目だろう」
「何? 私はお前の手など借りなくとも――」
「足」
「……え」
「さっきからずっと庇っている。痛むのか? 大分歩いたからな」
「な……っんで」
 梵天は目を丸くした。その表情がなんとなく淋しそうに見えて、少し、胸が痛む。けれどもこれは……こればかりは、間違っていない筈なのだ。この俺の判断とても。
「お前は強がるから、普段からあまり指摘はしないように努めているんだが……今は他に誰もいないしいいだろう。どこかで休んでいくぞ」
「まっ……待て! このくらい……私は平気だ! 貴様、無用な配慮は――」
「だから俺がいなくてはだめだと言うんだ」
 呆れたように言い放って、彼の目を見詰めた。ぴくりと身を跳ねて、梵天も再三歩みを止める。
 じっと見詰め合っていると、互いの中で何かが柔らかく解けていくのを感じることができる。彼との間で、偶に生まれるこの感覚は、些か擽ったく、けれども俺は目を逸らさない。梵天の視線もまた、俺を見限ることはなかった。
「……俺はお前のように知恵が回らない。そしてお前は、俺ほど体力がないし身体が丈夫でもない」
「……」
「――頼れ、梵天」
「……ん……」
 そろそろと睫毛を伏せ、梵天は徐に頷いた。不器用そうに結ばれた桃色の唇は、けれども、仄かに柔らかく。花の薫るような、……。
「……さて。そういえばこの先に美味い甘味の食える店があっただろう。あそこで休むとするか」
「き、貴様……まさか最初からそれが目的だったのではあるまいな⁉ まったく……貴様を一瞬でも信じた私が――」
 先に歩きかけて、思わず勢いよく振り向いていた。皆まで言わせたくなかった。何よりも俺が、今、お前の口からそんな言葉を聞きたくない。そう、殆ど衝動的に強く思って、俺は混乱の中、彼のようには回らない頭を必死で動かした。
 甘味。
 そう、甘味。
 甘味なのだ。
 お前は、
「甘味、嫌いじゃないだろう……?」

 元々色の薄い梵天の肌が、夕間暮れの薄闇の中、それでも確かに。
「……き、きらいじゃ……ない」
 見る間に柔らかな朱に、染まった。

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