帝梵

花零す渡り廊下

 ふわり、と花が薫る。
 思わず目が追う。
 流れるような白髪の――

「……なんだ」
 梵天が億劫そうに振り返る。
 渡り廊下を澄ました顔で擦れ違ったものの、思いがけずついていった俺の視線が煩わしかったらしい。
「……いや……」
「何だ。……気になるだろうが」
 詰るような言葉だが、声はどうやらそうではない。心配されているのだと気付いた。俺は本当に、用があるわけでも懸念を言い淀んでいるわけでもなかったので、何だか申し訳ないことをしたと思った。
 しかし、このまま梵天の言葉を否定したところで、彼は納得しないような気がする。俺は少し考えて、折角だからと、口を開いた。
「―……少し、」
「うん?」
 梵天が身体の向きまで変えて、こちらへ歩み寄ってくる。その律儀さに付け入るようで、やはりやや申し訳なくなる。
「――そこに立ってくれ」
「……は?」
「もう少し、此方――お前から見て右、そう。半歩だけ下がって」
 人通りが無いのをいいことに、渡り廊下の幅をいっぱいに使い梵天に指示していく。
 当然、梵天は不服そうな、否、その前にかなり怪訝そうな顔をした。
「一体何だというんだ。……落とし穴でも掘ってあるんじゃないだろうな」
「まさか」
 眉を顰める梵天の顔を見詰めながら、俺は少し自分の立ち位置も変えてみる。僅かに日向側へ移る。そんな俺の動きに合わせて、梵天が胡乱げな表情を乗せた顔を此方へ向けて――
「……そこだ」
「……はぁ?」
 俺は思わず感嘆の声を上げていた。
 梵天の、相変わらず〝よく分からない〟という貌。訴える感情はそのように一貫して変わらないのに、その表現は多彩で、実に美しく、目紛しく動く。無表情だ無愛想だと評される自分とは成程真逆の、豊かな表情。
「―そこが、一番いい。日の光が丁度よく差して、お前の美しさが一番映える」
 言いながら、自分の口許が緩んでいるのを感じた。
 やわらかな蜜色の陽射しを着熟して、やや眩しげに目を細めて。その分、睫毛は印象的に輝いて、その奥の紫水晶はまさに宝玉のように光を秘めている。
「…………な、……ぇ…………」
 そして、艶やかな唇はふわりと開き、
「……はぁ…………⁉」
 形のいい眉が持ち上がり、宝玉の目は驚いたように瞠られ、白い頬がみるみるうちに桃の花色に染まった。
「な、なに、なにを、言って、」
「先程はすまん。ふと、擦れ違ったお前の姿があまりにも美しく見えたから、思わず見惚れてしまった」
「……ふぇ……? え……?」
「敢えて言うつもりもなかったが、濁しても却ってお前に心配を掛けるだけだろうと判断したので」
「……ぁ……、ぅ……ん」
「時間を取らせてすまなかったな」
 俺と梵天とのやりとりの中では誤解が生まれやすい。俺は膨大な経験を積んで漸うそのことを学習してきたので、今回も、きっちりと言葉で説明をして、そして心から詫びを告げた。
 伝えるべきことを伝え、俺はその場を去ろうとしたのだが――
「――……梵天?」
 しかし、背後の気配が一向に動き出そうとしないので、訝しく思い振り返る。
「……」
 梵天は、そこに――俺の立たせた位置に佇んだまま、盛りを過ぎた向日葵のように項垂れていた。
 胸の底が薄くざわついて、慌てて数歩の距離を引き返す。
「……梵天……」
「……」
 寄り添えば、見上げてきた梵天の頬は、朱く火照ったままだった。物憂げに下がった眉。
 ――一瞬、自分の目がその表情へ釘付けになっていたことに気付き、俺は驚きに瞬く。
「……なぁ、帝釈天」
「あ……ああ。何だ」
 梵天が、真っ直ぐに寄越していた目を逸らす。耳の横の髪を掻き上げる仕草をしながら、緩く顔を背ける。顔の朱みは彼の耳朶まで及んでいて、目の前に晒されたその光景に、俺は、何故だか自分の脈が速まるのを感じて困惑した。
「その……それだけ、か?」
「……何だ?」
「……本当に、それだけなのかと、聞いている。……その、わ、私に他でもないお前が見惚れたなどと、ばかな言い訳……」
 言いながら、梵天の頭はどんどんと俯いていく。耳の朱みも、引かないどころかどんどんと濃くなっているように見えた。
「……すまん」
 やはり気に病ませてしまったのだ。
 難しい……。
 しかし諦めるつもりも毛頭なく、俺はなおも意思の伝達を図った。
「本当に、それだけだ。
 梵天が俺の横を通ったとき、不意に花が香ったような気がして……思わず目を向けると、お前の白い髪が美しく揺れていた。それで、実際に花の芳香がしたのではなく、擦れ違ったお前の美しさを、咄嗟に俺の方で花と錯覚したのだと気付いた。こんな感覚が物珍しかったもので、思わず足を止めてお前の背中を目で追ってしまっていた――」
 がしりと。前触れなく、梵天の両手に両腕を掴まれた。
「もっ……もう、いい……分かった、から」
「……そうか」
 相変わらず顔を俯かせたままではあるが、彼がそう言ってくれたので、俺は心底安堵した。
「だが……びっくりしたぞ。本当に……急に睨まれるわ、かと思えばこんな……なんだ……下らない理由で足を止めさせられていたのだと知らされて」
「ああ、本当に悪かった」
 〝無愛想〟を通り越して〝睨んだ〟とまで思われていたとは。そんなことはつゆ想像しなかったので、衝撃に軽く落ち込んでしまう。
「本当に、悪いと思っているのだな?」
「あ、ああ。勿論だ」
「本当か?」
「本当だ!」
「そうか。それなら――」
 きゅっと、俺の袖を掴む細い指に力が籠もった。
「……今夜、私の晩酌に付き合え」
「……何?」
 渡された言葉を咄嗟に咀嚼できず、混乱した頭で結局訊き返すに至る。梵天は顔を上げて、困ったように眉尻を下げたまま小首を傾いで見せた。
「悪かったと思うなら、詫びをしろと言っているんだ」
「悪かったと思っているし、詫びはしてもいいが……俺でいいのか?」
 やはりよく分からずに、俺は再々問い返す。こいつはソーマを楽しむ口だ。折角飲むというのならば、そこへ俺を招いては、心地好い筈の一時を自ら台無しにすることになるのではないのか。
 俺が見詰めていると、梵天はまたふいと視線を逃した。
 濃い睫毛が伏せられる。滑らかな頬にまた朱が差してきたのを認めて、俺は思わず目を瞠った。彼が照れるときの表情だ。何故、今、この表情を見せるのだろう。理由は分からず、しかし目は離せず、そうしているうちに自分の脈がまたとくとくと速くなってくる。俺は困惑するも、それは決して厭な感覚ではなかったのだ。
「――……前に、」
 梵天が、口を開く。その華やかでいて淑やかな唇は、一体何を紡がんとするのか。俺は耳を欹て、喰い入るように彼の顔を見詰めていた。
「――ふたりで飲んだことがあっただろう。お前がいきなり誘ってきて……あの時……あの時間は……今、思い返しても、なかなかに楽しかったんだ。……だ、だから、その」

 ――帝釈天は頷き、彼よりもほんの僅かに背の低い梵天と目の高さを合わせるように顔を寄せてから、恐らく何事かを囁いた。
 その後、踵を返しさっぱりとその場を去っていく彼の背中を、梵天の方は数秒、熱に浮かされでもしたような顔でぽうっと見送っていた。しかしそこは冷徹と合理の鬼との評判高い彼のこと、くるりと踵を回したその刹那、そこにあるのは、もはやいつもの涼しげで凛とした立ち姿であった。
「――あ、あれで、口説くつもりではなかったと……⁉」
「だろうぜ。今見たことよく覚えとけよー、羅刹天。あれがモテる男のコミュニケーション術……ま、帝釈天があれを発揮するのは対梵天限定だろうし、あれで落ちんのもまた梵天くらいなもんだろうけどな」
「……どっちにしても、そもそもそんな相性の良い相手がいない俺には参考にならないってことじゃないですか……」
 庭木の陰から渡り廊下の上をこそこそと窺いながら、羅刹天は溜息を吐いた。ひんやりとした湿気が足許から昇ってくる。吐いた代わりに吸い込むと、静謐な苔の匂いが今は物悲しく胸に満ちた。
「あっはっは。暗い顔すんな、若者。……お前は頑張ってるし、前途有望だぜ」
「普賢菩薩様……」
 陽の差す渡り廊下を、梵天はしゃんとした足取りで、帝釈天とは反対側へ歩き去ってゆく。
 羅刹天と共に日陰からそれを見送って、普賢菩薩は呑気なふうに笑い声を上げた。

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