「おー、……お?」
タバティエールは呼び掛けかけて、逡巡した。
末に、声を掛けるのを打ち切ってそろり身を隠した。なんのことはない、ただそこの木陰に身を滑らせただけだ。そんなに陰湿なことをしてやろうというわけではないのだ。ひょいと顔を出して窺えば、彼らはこちらには気づいていないようだった。
タバティエールの視線の先にあるのは二つの人影。基地近くの湖の畔──最近では、釣りの仕方を達人より伝授されし者が、ぼつぼつ腹の足しを調達しにやってくることも珍しくなくなった場所である。こんなところで恋人同士のデートに興じる者があるとは思わなかったが──そしてそれが他ならぬ〝彼ら〟であることが、タバティエールには意外だったのだが──基地内にいれば当然ここ以上に人と行き会う率は高くなるし、町へ出るにもレジスタンス成員である立場上リスクが付き纏う。なれば、静かに二人きりで語らうのには、たしかにここは比較的適当な場所であるようにも思われた。
まあしかし屋外であるし、個人の敷地ってわけでもない。偶然通りすがりの誰かに他意なく現場を目撃されたからって恨むなよと、タバティエールは胸中で念じた。
そう、他意はない。あるとしたら……少しの老婆心というか。兄心というか……親心というか?
とにかく、気になったのだ。ずっと気に掛かっていた。……あの、卑屈で少し意地っ張りで、けれどもそんな顔の下に、とても幼くて優しい声音を持っている彼。彼に、思いつめたような顔で、迷子のような声で泣き付かれたときから。
自分よりももっと卑屈で優しいという、そんな相手との向き合い方を本気で悩んでいるのに、そんな悩みを自分などが抱えることは滑稽だと、本気で嗤ってもいた。
カトラリーとキセル。
湖の畔、といってもその周りに広がる森の入り口へ殆どひっそりと隠れるように、彼らは佇んでいた。
それまで、どんな話を彼らがしていたのかは分からない。いつからここにいたのかも、タバティエールは知らなかった。ただ、二人を包み込む空気は穏やかで、それまで嘘や息苦しさのない言葉を交わせていたことは間違いないのだろうと、どうしようもなく思わせた。
二人は、適当な所へ腰を下ろしたり、向かい合っていたりということはなく、どちらかというと無雑作に並び立っていたので、ここが目的地だったというよりも、特に当て所なく散歩でもしていたのかもしれない。現に、二人はまたどちらからともなくゆるゆると歩き出した。しかし、さ、と森の中を春の微風が吹き抜けると、キセルのほうが、ふと足を止めた。つられて立ち止まり、カトラリーが彼の顔を不思議そうに振り仰ぐ。
キセルは、どうやらカトラリーの横顔へ髪の毛の掛かったのが気になったのか、或いは舞い降りた葉っぱがそこへ絡んででもいたらしく、片手を差し伸べて、その辺りを軽く擦るように触れた。
何気ない動作で、しかし気遣いの露わなやわらかさで、彼の指が頬に触れると、遠目にも分かるくらいにカトラリーの頬がぶわっと桃色へ染まった。そのあまりにも純真な心の内の発現は、こちらの良心をして目を逸らさせたが、彼の顔色を見たキセルの挙動が目の端へ引っ掛かると、その危なっかしさに、引き剝がしかけた視線は元のとおり吸い寄せられてしまうのだった。
タバティエールがひやひやしながら送っている視線の先、キセルはカトラリーの態度をどう取ったのか、狼狽えたように、……或いは畏れるように、びくりとその触れた指先を揺らしたのだ。元からあまり他者のそれと交わらすことのないように思われる瞳が、指先よりも酷く揺らいでいて、しかしそれでも目を逸らしきることをも躊躇っているかのように……苦しそうに歪んでいる。
──違うんじゃないか、と言ってやりたかった。君はその子を傷つけてしまったわけじゃあないんじゃないか、と。たぶん、彼はそう思い込んでいる。触れた手を咄嗟に離して、でも、元来の優しさが、〝傷つけた〟相手を放って逃げだすことをはよしとしない……。危なっかしくて、拙くて、……もどかしくて、ただ見ているということが切なかった。
タバティエールが愈々偶然を装って二人の横を通りがかるシチュエーションを考え始めたとき、ふうとカトラリーの腕が動いた。思わず思考が途切れ、タバティエールは再び彼らを見つめる。
……きゅ、と。それ自体はほんの僅かな所作だったのだ。しかし、怯えるように強張っていたキセルの表情と、ただ彼らを見つめるタバティエールの眉根とをやわらげるのには、充分なことだった。
カトラリーの細い指先が、ほんの少し、少しだけ、キセルのシャツの裾にきゅっと絡まっていた。
彼はその、自ら微かにつないだ接点を軸にして、そっと相手のほうへ身を寄せた。それもまたほんの僅かな動きではあったのだけれども──外野がはらはらしなくとも、カトラリー自身が、相手の不安を感じ取って、そうしてそれを打ち消すために考えて動くことができたのだ。……俺に弱音を吐いていたときよりも、心に余裕と、そして、自信、とが生まれているのじゃないか、と妙に感慨深いような心持ちで知らず目を見開いていた。
カトラリーは、紅くなったままの顔で、そろそろとキセルを見上げた。さても、彼にもやはりまだ戸惑いはあるようで、何か言おうとして躊躇っているのかはたまた言葉をうまく見つけられないのか、あの平生意志の強そうに切れ上がっている目尻が、心許なげにしばたいている。
と、そんな彼の頬の傍で、まだ中途半端に滞空していたキセルの手が、かく、と意思を持った。それに気づいたらしいカトラリーの目や肩が、反射だろう、ぴくりと震える。しかし、キセルは一瞬同じようにぴくりと動きを止めたあと、こんどは躊躇うことなく、ゆっくりとだけれども、たしかに、カトラリーのほうへ手を伸ばした。
彼は彼で、しっかりと、彼の大切なひとの意図を汲んだのだ。優しげで、不器用そうな指先はぎこちなく彷徨ったあと、やがておそるおそるといったように、カトラリーの若草色の髪の毛へと触れた。
長く伸ばした毛先へ、おそらくそっと触れられているだけなのに、まるでその感触を肌でもって感じているかのように、カトラリーはくすぐったそうにその猫のような目を細めた。睫毛の先から金色の雫が散る。そんな錯覚がありありと浮かび上がるほどに、……眩しい貌だった。
緩んだ口許には険がなくて、いつもの皮肉っぽい意地張りの影は見当たらない。その、黄桃の実のような甘酸っぱいばかりの笑顔を真正面から受け取って、かの卑屈なさみしがり屋の片割れも……ほろりと、とろけるように笑んだ。
ここへきて漸く見せた彼の笑みは、勿論タバティエールが見たことのない、いっとき目を見張ってしまうほどに深いものだった。深く、やわらかく、ここからでは聞き取ることはできないが、きっと、あの唇からは頼りなげで、それでも心底幸せそうな笑声が零されているのだろうと容易く想像された。
その笑声をも聴き拾うことのできる位置にただ一人いたカトラリーは……ふと、己の唇を噛みしめるように引き結んだ。タバティエールがそのことに気づき、首を傾いだ刹那──彼はその両腕を伸べて、がばっ、とキセルの首許へ抱きついたのだ。
うお、とちょっとどきどきしてしまった。見守る先で、キセルも流石にこれには驚いたのか、ややたたらを踏んであわあわとしている。その顔が先ほどまで以上に、耳まで真っ赤に染まっているのを目にしてしまって、またどきどきさせられた。
若草色の毛先に振られて宙ぶらりんになっていた腕は、暫くまごついたあと、見るからに不慣れで憐れになるような所作で、そろりそろりと相手の背なへ回る。やがて、くしゃり、とカトラリーのベストに皺が寄って、彼を抱きしめる腕に力のこもったことが分かった。
……あまりにも、初心で甘やかな光景に知らず張り詰めていた肺を、嘆息とともに解放する。彼らのどこまでもやわらかそうな内面を、そのまま無防備に晒した表情が、見ていて痛ましいほどに、……愛しかった。
こんな覗きみたいな真似をしながら言うことじゃあないかもしれないけれども。薄く自嘲して、溜息のような笑いを零す。
カトラリーの頭が動く。もぞもぞと、キセルの肩口へ押し付けられていた顔が、おもむろに上がる。その目は淀みなく彼の瞳を捉えていた。猫背気味であっても、やはりまだ少し高い位置にある彼の目を。見上げて、キセル、と、たぶんカトラリーの口はそう動いた。甘えるような、試すような、縋るような、怯えたような、やっぱり信じきっているような、そんな目をしたまま。
キセルのほうも、応えようとしたのだろうか。真正面から見つめられてたじろいでいるようでもあったが、その唇はやや開いて、僅かに震えた。カトラリーの背中を搔き抱いていた手は、片方がそろりと持ち上がって、春草のような髪を優しげに撫でた。撫でられた彼は、心地よさげに、また猫のように、彼の手へ頬を擦り寄せる。
カトラリーがそのまま彼のほうへ、う、と首を伸べようとすると、無理をするなとでも言うように、キセルの額がそれを押し留めた。額と額とがこつりと交わる。ふわり、と甘い風。蜜のような木漏れ日。微かに混ざり合った二人の髪の毛が、そっと彼らの表情を隠す。
この距離では、この角度からでは窺い知ることはできないが、きっと、二人は見つめ合っているのだろうと、思った。
そして──。
……うん、ここから先を盗み見るのは流石に野暮だな。
「……やれやれ。俺なんかが心配しなくったって、……うん、うまくやれてるじゃねえか」
タバティエールはそっと肩を竦めると、憂いのない顔で踵を返し歩きだした。
あとで少し苦い煙を肺に入れたい。どうしようもなくそう思いながら。