類はああ見えて案外スキンシップが好きだそうなのだ。
初めて触ってしまったのは司のうっかりだった。とはいっても司とて普段から人の身体にべたべたと触れているわけではない、それがたとえ同級生であれ仲のいい下級生であれ妹の咲希であれ。妄りにそういう振る舞いをするのは相手への敬意に欠けると考えているからだ。
なのに類に対してなぜか、普段は全くしないゆえに癖になっている筈もない〝うっかり〟が発動してしまったのは、きっと今まで接してきたどんな他者よりも類たちとの距離がぐずぐずに煮溶けたようなものになっているからだ。
親しき仲にも礼儀ありという。司はその言葉を疑ったことはない。今でも、司は現に意識して、寧々への言動が何かを踏み越えたものになってはいないか常に顧みて気を遣っているし、えむが幾ら向こうから触れてこようが自分からは同じ気安さで同じ行為を返さぬようにしているし、類だって、同い歳で同じものを同じだけの熱量で好きで、初めてできたこんなにも遠慮なく遣り取りのできる友人だったけれど、遠慮と気遣いとは違うのだとやっぱり司は思っている。それはほかならぬ類も同じで、彼ほど人に配慮する嵐を司は知らない。
煮溶けたようになった今でもそうなのだった。ワンダーランズ×ショウタイムはかけがえのない一個の運命共同体であるが、その中身は間違いなく一人一人別々の人間の寄り集まりである。そして司はそのことをこそ愛しんでいた。三人の実力と、ショーや人々の笑顔にかける情熱とを買ったうえで、それらを内包して彼女の人生を生きている鳳えむという人間、草薙寧々という人間、そして彼の人生を生きている神代類という一人の人間のことをも司は心底非常に好きでいる。
煮溶けているのは実際、物理的時間的な境界線だけなのだった。きっと、司が類にうっかり触れてしまったのもその所為だ。ショーの練習や本番の演技中、互いの身体に触れる機会がままある。加えて最近は宣伝公演のため、泊まり掛けで出掛ける機会さえ生まれた。宿の相部屋で眠っていると、そこにいるのが〝他人〟だという気がなんとなく、しなくなってくる。
そもそも類の傍は司にとって居心地が全く悪くなかったのだ。類は突拍子もないし遠慮もないけれど、前者は司の寧ろ好むところだし後者に至っては司が寧ろそうするよう要請したのであって、そのうえ、類は何も司を苛めたり蔑ろにしたりしたい人なのではない。司を役者として、そして仲間として、さらには友人として深く大切にしてくれている。人を大切にする術を心得ている人から大切にされていて、居心地がよくないわけもなかった。だからたぶん、そのことも──そのことによって司が己の気持ちを無意識に弛緩させてしまったことも、件の〝うっかり〟を引き起こした一因だったのかもしれない。
『……あ、……わっ』
『……』
『すっ、すまん……類!』
『……?』
司が自分の行動に自分でびっくりして飛び退るように手を離したら、対する類は寧ろきょとんと首を傾げて、今し方司の触れた彼自身の前髪を不思議そうに指でつまんだ。『何か付いていたかい?』となんの動揺もないまるい声で聞かれて、司はそれで、ぎしっとした。ぎしっと、自分の中の何かに罅が入る音を聞いて、それはたぶん目に貼り付いた鱗が剥がれ落ちる音とかだった。
類はほんとうに思い込んでいたのだ。脈絡もなく不意に自分の身体へ触れてきた司に、なんの他意もないことを。そしてなんの他意はなくとも自分への敬意だけは、司がいつなんどきも持ち合わせのない筈がないことを。
司はそれを一瞬で分かった。同時に一瞬で、自分が彼の推測を裏切ったことも理解してしまった。類は思い込んでいる。だから、黙っておけば、彼に話を合わせていれば、司の真意なんて彼にばれることはないか若しくはそのときを先送りにはできるかもしれない。それでもそうはできないと、やっぱり司は同じ一瞬のうちに強く決断したのだった。司自身は自覚していないことだったが、それは類の思い込んでいたとおりに、司がいつなんどきであっても類への敬意を捨てなかったことの発現だったのだけれど。
「……類」
「司くん……」
「……もう一度したい……」
「……。うん、僕もしたい。だから、君からしてくれるかい?」
類がちょっと唇をもにもにさせてから、そう言って目を閉じた。司はその声音をしかと聞き届けてから、自分のちょっと震えた唇をそこに重ねた。
今、二人はそんなことをしている。学校の屋上の給水塔の陰にわざわざ入ってまでこんなことをしている。ワンツーの溜まり場といわれて久しい屋上に好き好んで上がってくる生徒はほぼおらず、いるとしたらそれは類(偶に司)に用事のある暁山か、セカイでお昼を食べるために渋々やって来る寧々か、物怖じせずに職務を全うしようとする白石くらいだった。屋上での挙動は案外建物の下からよく見える。加えて、よく知った人間にこんな場面を間近に見せるのも気恥ずかしい。それゆえの給水塔の陰だった。
キス、なんだろうか。その一種かもしれない。唇どうしをくっつけて、只管すりすりふにふにと擦り合わせる。そのあいだ司の左手の指と、類の右手の指とは絡まり合っていて、そうやって手を繋いでいるのもたとえようがないほど好きなのに、もう一方の手を敢えて空けてあるのは、その手で類の髪を擽ったり腕を撫でたりほっぺたをつっついたりしていたいからだった。司は自分が類にそうするのも好きだし、類から同じようなことを自分にしてもらえるのも好きだ。
つかさくん、と類がなんだか緊張したような顔で名前を呼ぶ。
唇が離れているようないないような距離。否定をするときというよりも、己の中の遠慮を取っ払おうと苦心しているときに近い空気感を放った類の表情に、司が目を開いたときだった。
め、と熱いものが唇に触れた。
熱い。ぬるりと、しているといえばしているが、それは全く不快な感覚じゃなかった。ぱりんと軽やかな音を立てて司の鱗はまた落ちていった。そう、軽やかに。
控えめに伸ばされた類の震える舌に、司は迷いもなく同じものを差し出してくっつけた。咄嗟に臆した様子を見せた類の表情が、それでも安心したように弛んでいくのが肌で分かる。司はどうしようもなくそのことにこそ安心した。そのまま抱き込むみたいにして類にキスをする。舌どうしを絡ませ合う種類のキスを初めて、する。
『……ちがうんだ、類。すまない』
『……違う? 別に、見間違いくらいならそんなに深刻に謝らなくてもいいけれど』
あのとき類はやはり不思議そうにして、そう答えた。『君のそういう誠実なところは、美徳だと思うし、僕個人としてもとても好ましいと思っているけれどね』とも言い添えてくれて、それが単にフォローのための言葉だとかリップサービスとかではないことを知ってしまっていたから、司の情緒はそこでぐちゃぐちゃになってしまった。
そう、類が知ってくれているとおり司はぜったいに類に対しても誠実でいたくて、けれどもそれを貫こうとしたら今ここで本当のことを言ってその類に見損なわれてしまう。司はもう二度と類をがっかりさせたくなかった。類自身に何かに対してがっかりしてほしくもなかったし、自分がほかでもない類にがっかりされてしまうのも耐えられなかったのだ。
『……っる、……るい、類。類!』
『なんだい、聞こえているよ。司くん』
めちゃくちゃになった思考回路からとにかく類の名前を連打した。いかにも、今僕は面白いものを見ているなあというふうな類の声が返ってきて、なんだその顔はと司は思う。人の気も知らないで飄々と、でもその実どこまでも柔らかいことを少なくとも司たちだけは感じている。
その、なんでもない笑顔に、やっぱり。
『──オレが、ただ触りたくて触ったんだ』
『……うん?』
『許可も得ず、お前の気持ちも確かめず、身勝手な行動をしてしまってすまなかった!! 髪にごみが付いてたとか、寝癖ついてたとか、そういうのでは、全然なくて……なくて……! 必要もないのに、オレがただ類に触りたかったがために、無神経な、真似を……!!』
『ええっと』
司は泣いた。泣くなら被害に遭った類の方で、司がそうするのはお門違いだと分かってはいても泣けてしまった。己の不甲斐なさに対する嘆き、そして親愛なる友人に対する懺悔は類に『ちょっと待ってくれるかな』と声にして遮られるまで続いた。
『まあ少し落ち着きなよ、司くん。そんなに泣かれたら、まるで僕が君に何かしてしまったみたいじゃないか』
『ゔっ……!! そんなことは! そんなことは断じてないのだぞ!!!!』
『うわあ、いつもの君の声。……ふふ。そうだね、今僕は君に何もよからぬことをしようとはしていないし、それは君の方だって同じだろう? それくらいは僕もちゃんと分かっているさ』
柔らかく言いながら、類が無意識らしく少しにやついたので、司の目尻には今までとはまた違った熱い涙が滲んだ。
『けれど、珍しいには違いないね。君は誰に対しても、あまりスキンシップのようなものを求めているふうには見えなかったから』
司の感涙を余所に幸せそうな笑みを引っ込めた類は、今度は興味深げな表情で首を傾げて見せた。
『それ、は……たぶん……類だからだ』
『え?』
『お前の言うとおりだ。こんなことは、珍しくて……初めてかもしれない、誰かの、身体に触りたいと思うのも、その、物理的に近くに寄りたいと思うのも。類といると、初めて、そんなふうに感じるようになっていって……だっ、だからといって! あんなふうに勝手に実行に移してはいい筈はなかったしそうするつもりもなかったのだが! な、なかったの、だが……』
司はだんだんと肩を落とした。そして、すまない、ともう一度詫びた。
天馬司は誠実でありたかった。咲希や冬弥に笑っていてもらうためにはそうあらねばと思っていたし、齢を重ねた現在、ワンダーランズ×ショウタイムの面々も司のそこを美点として買ってくれている。そして何よりまさに今、目の前の類がそこを好きだと言ってくれたのだ。
そうしないわけにはいかなかった。
『……』
『……類……?』
けれど司は耐えかねて、名前を呼んだ。許しを請いたいわけではなかったが、不意に口を引き結んで、ふうっと表情を消していった類の感情を測りかねたのだ。
測りかねる、がしかし、どこか既視感もあるような気がした。いつ見た表情だろう。そのとき類はなんと言っていたのだったか。彼は表情を消したのではなくて、表情に表しかねていて。なぜならそれは彼が今までに表す機会のなかった感情、寂しい彼がそれまでに出会えたことのなかったという、とてもとても、大きな──。
『……ねえ、司くん。それって本当のことかい?』
『──! っああ! 勿論だ!!』
類がふと口を開いた。正直、彼の言った〝それ〟が自分の台詞のどの部分を指したのか司には分からなかった。分からなかったが、自分が類に対して紡いだ言葉はそのどれをとっても嘘は一つもなかった。ゆえに司は、分からぬままにもはっきりと勢いよく頷いたのだ。
『……、そういうことならますます、君が謝る必要も、泣く必要もないよ』
類はいつの間にか俯いていて、ふわっと垂れた甘い色の髪の毛がその表情を彼にとって優しく隠していた。類の声はさっきまでの飄々とした、それでいて柔らかく頼もしいものではなくなっていた。小さな音は囁き声とも異なっていて、少し掠れて、拙い足取りで司の耳に届いていた。
類の手がそろり、伸びてきて、司の手の甲にちょんとその指先だけが触れた。
『……ぼくたち両想いかもしれない』
司と類が両想いなことは、改めて言われるまでもなかった。自分たちは同じものを目指して、同じものを求めて、同じだけの熱を高め合ってショーを作っている。けれど、類は、それだけじゃないと言ったのだ、このとき、初めて。
『司くん、……触ってくれない、かな』
類が少し身動いで、その拍子に表情を隠していた前髪が僅かに晴れた。覗いた肌の色が真っ赤に茹だっていて、司は驚いた。
しか、と、気付いたときには視線が交わっていた。やや上目遣いに司を見る類の顔は、相変わらず強張っている。──司はそのときはっきりと思い出していた。類のこの表情、前にどこで見たのかを。この顔をしたときの類が、そのとき、彼の内にどんな感情を持て余していたのかを。
『──る、類、……いいのか……?』
『……ん。……僕も……司くんには、触れてほしいし触れてみたいんだ。君が、……いやじゃ、ないのなら、ずっとそうしたかった』
司は一も二もなく類の手をとった。
──そのときの類は、今と全く同じ顔をしていた。司に、新しい触れ合い方をおずおずと提案してきて、歓喜した司が同じように求め返せば、漸くぎこちなくも目許を綻ばせた。それはいつか、いつかの類が封じたというショーをみんなで成功させたとき、自分で受け止めきれないほどの嬉しさに困惑していたのだというあの表情にもよく似ていた。
「……っ、類……」
「……つ、かさくん。司くん……」
キスを解いて、呼吸を整えていたら、類の舌がまたぺろりと下唇を掠めた。
蓋を開けてみれば、類はほんとうにスキンシップが好きだった。司も大概なのだけれど、あれから、あのお互いの中に潜在していたコミュニケーションに関する需要を吐露し合ったときから、二人の距離は輪を掛けて融解してしまった。
司が類の手をとったあの直後こそ、流石にあのまま手を繋いで、それから仕切り直しのように司が類の髪を少し撫でて、やっと見た目に分かるほど笑えるようになった類が甘えるみたいにその手に擦り寄ってきたくらいで終わったのだけれど。
今や、明らかに必要はない場面で背を抱き寄せて話し掛けたり、離れるときにお互いの髪の毛が絡まり合うほど無駄に近い距離で手許の作業を覗き込んだり、これは身長差のために司の方からはあまりできないことだが、類の方はよく司の肩に顎やら額やらを乗っけてくっついてきたりしている。そして、くっついてはくるがこちらへの気遣いが滲み出た重さを、司はすごく好きだと思って、もっと甘えていいんだぞとか言いながら寧ろ上機嫌でその体重を引き寄せたりするのだ。
「類、……るい、いいのか、もういっかい、」
「うん、して、つかさくん……っ」
唇でお互いの髪や爪や肌に触れ合うようになるまで、ほんとうに大した時間は掛からなかった。あまつさえ。今日に至っては、舌を絡ませ合いながらキスまでしてしまった。もう本当に、ぐずぐずで、ずぶずぶのとろとろだ。煮溶けてしまったものを指で掬い取って舐めたら、涙のようにしょっぱいような、何か奇跡のように甘いようなそんな気がした。
「……、っ、……」
「……っ、……!」
抱き締め合って、暫く只管キスを交わす。
それはとても自然なことだった。同時に、あまりにも自然だからこそとてつもなく不思議なことでもあった。司にとって、これは初めて湧いた感情の筈だ。そして初めて経る体験の筈だ。類に触れたいと思うこと。そして同じ思いを持ってくれていた類と実際に触れ合うこと。それなのに、まるでずっと昔から知っていたような気がするのだ。
自分たちはもう何百年も前からこういうふうにしていて。近頃せっかく再会できたのだが、あのとき司が類の手をとるまで、昔のように触れ合うことをいっとき忘れていただけのような気がする。そんな錯覚が起こるほどに、類と触れ合いたいと願うこと、類と実際に触れ合うことは、司にとってあまりにも自然な出来事だった。自然……そう、自然に、あまりにも当たり前みたいに司の指は類の前髪に伸びたし、類があたらしいキスをせがんでくれる今が司にはあまりにも当たり前のように嬉しい。
もう何度目か、今日初めて知ったやり方のキスを、解いて、乱れた吐息が混ざったまま見詰め合う。
近すぎてぼやけてはいるけれど、類の表情は司にはよく分かった。その顔に笑みはなかった。ましてや悲しみも怒りも、何もないのだった。
……これは司本人には自覚のないことだが、司の表情の作り方にも、類と似たようなところがあった。司はしばしば程度が過ぎると評されるほどの自信家である。ゆえにどんな褒め言葉を食らったとしても大抵、それはそうだと真っ向から受け止めて心底笑うことができる。であればこそ、彼に〝照れる〟という機会はあまりない。失態を演じた気まずさや格好のつかない決まり悪さともまた違う、何か、そう、擽ったいような小さな幸せが不意に我が身に降り注いだとき、己の感情をどう捉えどう表に現すか──そのやり方が司はかなり不得手だった。
つまるところ、表情のない今の類の目の前にいるのは、同じくぎこちなく固まった顔をした司なのだった。
不思議なほどに飽かず渡し合う幸福感を、当たり前のように受け取りながら、けれど当たり前のようには到底受け止めきれずにいる。二人とも。今はまだ。
だって実際、当たり前なんかではないのだからだ。百年も前からずっと溶け合っていたことなんて所詮は司一人の夢で、本当のところは、二人の人生はこれが一度目で、出会ったことは偶然で、単にそれからずっと手を離さなかった、離さずにいられるよう離さずにどこまでも行けるようお互いに必死で努力してきた、ただそれだけのことなのだ。
じっと見詰め合っている。お互いに強張った顔を晒し合ったまま、けれどもお互いにそれを居心地悪いとは思わずに、その表情のもっと奥の方を知り得たくて見詰めている。
ふと、類の赤い目許が、ゆうっくりと瞬いた。きれいな睫毛を煌めかせて、滴が一つ流れていく。それを認めて、司の身体はごく自然に動いた。まるで当たり前みたいに類の頬にくちづけて、その滴を受け止める。煮溶けた境界の味がする。「司くん、」耳許で、掠れた声があまく小さく笑った。
「君とこういうふうにするの、やっぱりすきだな、僕は」
「……ああ。オレも、類とこうしているのが堪らなく、……たとえようもないほどに、好きだ」
胸の中身を噛み締めるように、返せば、類が笑ってくれたことも相俟って司の口許も無意識に、はにかんだように漸く弛んだ。
quoi

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