「ぎゃあぁ!」
両手の吸盤の間で、己のトレーナーたるニンゲンが情けない悲鳴を上げたのをゲッコウガは白々と見下ろしていた。
お前が追い求めて得たゲッコウガではないのか。そんな相手から構われて“ぎゃあ”とは随分無礼な態度が許されるものだ。人間社会とはどうやら大したモラルを持たぬものらしい。
己のよりもずっと高い体温を持つ頬を両手で挟み込んで、ただじっと目を合わせる。しかし相手の反応は「……な、何ですか……?」ときた。これは愈々もって分からせる必要があるらしい、悟って、不満を露わに息を吐いた。
ゲッコウガというポケモンを手持ちに加えたいからという理由で、これがケロマツだった自分を追いかけてきたことは知っている。
登って見せよと先駆けたアスレチックではなく、その頂に座する己をこそ刺していた視線の異様なまでの執着に、何だこいつはと思った。特段いい意味ではない。ただ別に悪い意味でもない、単純に呆れた。
カロスにおいてケロマツという種はさして珍しくもない。こうしてヒト前にも堂々と姿を現すし。己がその中でも特に優秀な能力を身につけているという自負はあれ、……何せこの気難しさだった。自分で言うのも何だけれど。
誇り高くあれ、自尊心を損なうなと自身に唱え続けた生き様は、ポケモンを使役せんと欲するニンゲンは固より、通り一遍の他者からは得てして煙たがられるものだった。
つまり、ミアレの街どころかポケモンの育成に関してもドの付く初心者だったこの人間にとって、全くやさしくない個体だった筈なのだ、己は。
それを、単なる無知ゆえかそれに起因する無謀ゆえか、これは執拗に追ってきた。さぞ自信がおありだと胡乱に見遣った目を、己はほどなく見開くことにはなるのだが。
というのも、あれは何とも格段に――アスレチックの攻略が下手くそだった。地上を走る姿はそれなりに様になっていたというのに、空中の狭い足場に足を掛けた途端、慣れなさからか不安からか、見る間に身体の軸がぶれた。そしてどうやら空間を把握する力が甘く、きょろきょろと頻繁に進路を探ったり、その拍子に頭を度々ぶつけたりしている。
そんな体たらくのくせ、朝な夕な同じアスレチックを落ちては登り落ちては登り、黙々と走り込むニンゲン個体を、ケロマツだった己も気付けば寝食を忘れて眺めていたのだ。
いつしかあれは、己を“師匠”と呼び始めた。とはいえ己としては何を指導してやった覚えもない。ただ、あれが勝手にこちらのいる位置を指標と定め、闇雲にこの足跡を辿ろうとしているだけだったのだけれど。
『やっ――やりましたよ、師匠!』
初めて同じ地平に足を着けたそれは、そう言って本当に浮かれた様子で、笑って。
俺に追いつくならばこんなものではないと再三試練を与えても、また黙々と時間を掛けてそれをこなし、最後には自分と同じ目線で笑っていた。
畢竟。高嶺のご令嬢が無理難題を突きつけるのは、遠回しなお断りと相場が決まってるらしいが、ケロマツがヒトにばら撒いた挑戦状は、やがて書き手の意図を離れ、あらぬ展開へ飛躍した挙句に途方もない結末へと着地したわけだ。
『――えっ!? い、一緒に来てくれるんですか……? 本当に?』
どうせ己を口説き落とすだか力ずくで従わせるだかしてどうやっても連れて行くつもりだったのだろうに、こちらがそのどれもに先手を打って自らの意志で同行を申し出れば、よほど信じられなさそうに聞き返された。
こちらが穏和しく従うつもりだとでも思って、拍子抜けしているのだろうか。それとも、一度は力でもって屈服させねば安心できないのか。じっとりと、己とは何もかもが異なる造りをした、目の前の生き物を、その瞳を、己はただ穿たんとするように見詰める――。
『――あなたのような気高いひとが、認めてくれたんだ。それなら自分も……もっと自信を持たなくちゃ』
広い、広い、まさに突き抜けるような青空の下だった。
『これからよろしくお願いします!』
誰かのことを、こんなにも清々しい心持ちで見上げている己が不思議だった。
……翻って、今。
「――ぎゃあぁ!」
己の手の中で目を白黒させたこれは、とんでもない不義理者だ。
ここ一週間だけを切り取ってみても――街中で遠目に見かけたゲコガシラをいつまでも目で追っていた、ワイルドゾーンでケロマツにぼんやり見惚れた挙句に別のポケモンから不意打ちを受けた、バトルゾーンでは相手のゲッコウガと対峙した瞬間、明らかにそれまでとは違う目の輝かせ方をした。先週以前を含めればもっとある。こいつの許し難い罪状は。
あなたにもこんな時代があったんだよなと懐かしくて、とか、どんなゲッコウガを見てもやっぱりあなたが一番かっこいいんだよなあと思って、とか、その都度ほざくがそんなものは言い訳だ。
ケロマツやゲコガシラの容姿がそんなに恋しけりゃ、はなから進化なぞさせなければよろしい。ワイルドゾーンなりで地道にマッチングを繰り返していれば、どうぞ、今よりもお好みの個体が手に入ったことだろう。
だが、だが。実際、お前は俺を選んだのだ。
苦手意識も露わによたよたと踏み板を渡って、文字どおりしこたま痛んでいるであろう頭を抱えながらおろおろと方向を見定めて。“ゲッコウガ”を欲しい、だけならその道に敢えて拘る必要はなかった。己は確かに優れた能力の幾つかを持ってはいた、だが性質は傲岸で、怖ろしく偏屈である自覚もあった。
こんな俺を、こんなお前がそれでも追ってきたというのは。さぞや強い覚悟をお持ちの上での決断だったろうと考えたのは買い被りか?
俺を一旦は手許に置いておいて、ほかにめぼしい者が見つかるなりあわよくば乗り換えようなどというさもしくも浅はかな魂胆ではあるまい? 第一、お望みの“ゲッコウガ”がお前の最も近くでお前に従うと言うのだ、これより遠目に映る有象無象などお前にとっては陽炎よりも意味を成さず、光りもしないぶん空の星々よりも価値を持たぬものである筈だ。そんなものを追う必要はない。見惚れるなんざもってのほかだ。許さない。
――お前のゲッコウガは、こっち。
真夜中の小休止。ベンチの上で上でいかにも幸福そうにへらへらしている顔を両手で引っ掴まえて、ぐるんと己の方を向かせた。
仮にも執心した相手へ向けるものとは思えない、失礼極まりない悲鳴。満天の星空に響き渡ることもなく、それはせいぜい、己の手の中だけに蟠って甲斐もなく消えてゆく。
「……な、何ですか……?」
きょときょとと瞬く瞳。不安げというよりも、それはどちらかというと、相手のことを案じるかのように、深く、こちらをまなざしていた。
「……」
それに対して、真っ直ぐな答えを返すことはしなかった。
こちらを押し退けようとでもしたか、ふんわりと持ち上がった左手に、伸ばした舌を緩く巻いて留める。流石に少し戸惑った顔をしたのに、痛めるような良心を持っている己でも元来なかった。
首周りの舌を指で少し引き下げる。拘束する腕が減った隙を突かれぬよう、相手の頬から首の後ろへと、残る片手を滑らせる。街中で観察できる程度の、人間どうしの愛情表現は知っていた。それを真似ることも、ゲッコウガの身体の造りからしてさほど難しいことではなかった。
顔をぐっと寄せる。露わにした口唇を、体温の高い頬へ触れて、……少しの間だけそのままで、そして、離れた。
巻きつけた舌をほどくと、力の抜けた左手はぺしゃんと持ち主の膝の上へ落ちた。眠らない街灯りに、人間の頬の赤みが冴え冴えと映えている。それが所謂、憎からず思っている表情だということは、短くない間ヒトの街を高みから眺めるうちに学んでいた。こいつがここまで照れたところは見たことがなかったけれど、そうか、こういう顔になるのかと思った。
「……あ、……っと……、……え……?」
今度は右手を持ち上げて、頻りに前髪を弄り始めた人間は、微妙に言葉になりきらない声を漏らしながらゆっくりと首を傾いだ。
「今……の……その、人間で言うと、……あ、あの」
真っ赤な顔で言い淀むのを見て、ああとんでもないことをしたと思った。
どうやら目論見以上に効いてしまったらしい。なんて――なんて気分がいいんだろうか!
こいつが己に対して並々ならぬ情愛を抱いているようだとは気付いていた。それがどうやら、こいつにとっては情愛のうち“恋”と呼びうる種類の機微をも含んでいるらしいということにも。それらは暫くの間、あくまで観察による推測でしかなかったが、たった今、晴れて己にとっても実証を経た確信となったのだ。
ニンゲンの恋愛とは往々にして、互いを強い執着でもって結び合いがちなものらしい。ならば――ならば、己にとってこんなにも好都合なことはない! 余すところなく利用してやる。こいつの己に対する恋情を。あまりにも確固たる情愛を。不確かな予測に基づく賭けは今、己の未来永劫に亘る全身全霊を懸けての決断と相成った。
未だ的を射る言葉を紡げずにいる相手を一瞥して、その目が伏せられているのをいいことに、淡くほくそ笑む。
お前のこちらに差し向ける想いに乗ることで、己のこの望みさえも叶えられるのなら。片恋を煩うその心にこの世で唯一見合うものだと偽って、己の内に澱む激情をお前に引き受けさせることができるのなら。幾らでも乗ってやる。ああ躊躇わずに嘯いてやるとも。誰宛ともつかぬ果たし状は今思えばただ一人のための恋文だったのだと、いかにも運命的なお伽噺を現実として仕立て上げて見せようじゃないか。幾らでも、どこまででも、いつまでだって。
だから。
――お前の執着を俺に寄越せ。
――俺だけに、寄越せ。
今度は右手を掬い取って、その甲に思いの丈を込めて口付ける。上目で見遣れば、もはや湯気を噴くのではと思うほど頬を染めて惚けているので、己はいかにも恭しくその手を膝上へ送り届けた後は、堪らぬ愉悦を噛み殺すように、喉の奥でぐつぐつと唸るごとく笑った。