〈ぬばぁ〜っ〉
夜、ホテル、誰もいない自室の筈だった。
ベッドを背凭れにカーペットの上でぼんやりしていたら、まさにそのベッドから這い出るように、濃い気配がした。
振り返らなくてもそれが何なのかは分かったけれど、条件反射がそうさせた。背中側から私の隣へ回り込んで、ぬっと顔を覗かせる――私の手持ちの“ゴースト”と、目が合った。
「ヤハン。……何かあったの?」
〈飽いた〉
「そ、そっか……」
けろりと言い放つかわいい顔に、肩から少し力が抜ける。今晩、私の手許にモンスターボールは一つもない。顔見知りのいる研究施設に、一泊の約束で預けて来たところだった。
人間にとってのポケモン研究の一環ではあるが、各種能力テストや健康診断、さらには人間社会見学みたいなものと考えればポケモンたち側にも得る物はある。知人は“シッターに預けたと思ってゆっくりするといい”と帰り際にそっと言ってくれもしたけれど、……ポケモンの世話で自分が休めていないとは、自分の場合はあまり思っていない。
「ここに来ること、誰かに伝えた?」
〈みな やかましゅ 止めよる。シノは 殊、やかまし〉
私の手持ちのピジョットだ。あの性格からして、自分だけ逃げるなとかそういう言い方をして引き留めたのだろうか。
「……そっか。みんなが分かってるなら、まあ……よく、はないけどまあ、いっか」
この自由気ままなお方が、止める声を聞かなかったとはいえ少なくとも仲間には一言伝えてから出掛けてくれるようになったというのは、それだけでありがたい変化だ。もしかすると、何も言わずに姿を消したときの方が後で面倒だという判断なのかもしれないけれど、そう分かってくれているのなら、勿論それでいい。
「……」
ヤハンが私の右隣から、私の真向かいへ、ゆっくりと回り込む。それに連れて、私は捻っていた首を、ゆっくりと正面に戻す。けれどヤハンはそのまま移動を続けて、今度は私の左隣に、そしてついにはこの部屋に現れたときと同じように、背中側へと通り過ぎてしまった。私の視界からうつくしい闇が消える。もう行ってしまったのか。たった半日いた研究所に飽きたと言って戻って来た筈なのに、今度はどこに行くんだろう……。
〈ぬし〉
「……わぁ」
ぬべ、と右隣から気配が現れて、私は首を百八十度回してそちらを見た。久し振りに、ヤハンの驚かしに本気で驚いた、気がする。驚いたはずみで、涙が片目からぽとんと落ちた。
〈生気ないやつ おどかしても おもしろ ない〉
肩越しに、背後から覗き込むように、ヤハンの大きな目が私の顔を見ている。驚かしが成功したときは決まってきゅっと愉快そうに細まる筈の目が、今はただじっと据わっていた。闇に二つ浮かぶ、大きな目だ。ただ私を見ている目を見ていたら、なんだか、どうしようもなくなって、自分を上空から真っ直ぐに吊り下げていた糸が切れたみたいに、背中がぐにゃぐにゃと曲がる。
〈……セテか ヨア 呼ぶ〉
ゴーストが、二匹を探すように頭をふよふよと左右に振る。けれどメガニウムもマフォクシーも、当然、研究所でお泊まりだ。闇に溶けて行こうとするヤハンの浮かぶ指を、私は咄嗟に握った。
「……いて」
ヤハンが、いて。そういう意味でその一言を呻いた。ただでさえ自由なひとだ。見慣れない筈の場所にさえ飽きて戻って来たと言うのに、トレーナーの個人的な事情に、こんな楽しくもないことに、付き合う義理はない。付き合わせる権利も、私にはない。
〈……〉
ぐうるりと、気配が回る。私の身体の正面に、ゴーストの頭が向かい合う。嗚咽だけをどうにか喉の奥に押し殺した状態で、私はもう殆ど泣き崩れていた。片目を潤すに留まっていた筈の涙は、もはやぼたぼたと膝に垂れている。脳がぼんやりして、ヤハンがこの部屋に戻って来たのが一時間前だったのか三十秒前だったのか、自分が泣いているのが現実なのか夢なのかも、上手く分からない。ただ、息が苦しい。
〈……からだの 病か 話せば 楽になるちゅうやつか われには 分からぬ。分かったとて、なんも よう してやれぬ〉
いつも、私の目線より少し上を飛んでいる気配が、今は、少し下の方から漂ってくる。俯いている私に目を合わせようとしてくれるのが、申し訳なくて、どうにか必死で顔を上げる。
〈きゃつらのよに してやれぬ。よいか、われで〉
喉を押し拡げて這い出る。締まる喉を潜り抜けて呻きが漏れる。わけも分からないまま、気が付いたら目の前の影に抱き縋っていた。ひんやりとしたガスの塊に、私の涙やら何やらが降り掛かるままとめどもなく吸われていって、それが怖ろしいと思うのに、意思に反して強張った手指を自分でほどくことができない。宙に浮かぶゴーストの腕が、近くをふよふよ漂って、やがて私の背中に着地した。爪先の尖った感触はないけれど、もぞもぞ動くその節くれだった重みは、やっぱり私の知るヤハンのもので間違いがなかった。
〈……ゲコやリンウ ぬしを 一人にさせたがいい ちゅうた。疲れたか、われら いて〉
〈それとも ヨアのよに われらおらず 寂しがったか〉
〈われらと 無茶して 風邪ひいたか。それは、自業自得〉
わたしはぜんぶに、分からない、そうかも、と答えた。いっとき悪化した過呼吸もそろそろ落ち着いてきていたのに、ゲッコウガやルカリオが私自身も把握していなかった不調に気付いていたようだと聞いて、また泣けてくる。情けなくて、申し訳なくて、とても惨めだ。こんなに優しいひとたちがいて、苦手だと言いながらも傍にいてくれるひとがいて、でも、だから、それこそが、ほんとうに、わたしを、惨めな存在だと断じる。身体が疲弊しているからこんな思考に終始するのだ、先ずは休めなければと思うのに、手足は痺れて、背中は曲がり切ったまま戻らなくて、どこにも力が入ってくれない。
けれどそのお陰で、やがて泣くのにも疲れたのか、ゆっくりと時間を掛けながら、それでも私の呼吸は平静の状態へと近付いていった。
〈……落ち着いた〉
「……ふ、……うん。落ち着いた」
ただ淡々と現状を評したようなヤハンの言い方に、自然と笑いが漏れた。その拍子に肺の底が少しひくついたけれど、一呼吸置けば、それが持続的な痙攣に変わることはなくなっていた。
「……ごめんね」
〈……がぉー〉
「ふふ、……ありがとう」
〈うむ〉
手心の加えられた威嚇を受けて言い直せば、いかにも満足げな唸り声を返してくれる。こんな相手が目の前にいて、自分を惨めだなんて思う気持ちは、不思議ともう少しも湧いてきやしなかった。
〈name〉
名前を呼ばれて、珍しさに顔を上げる。と同時、ばふ、と頭に何か乗る。節くれだった重み。ヤハンの手だった。うぞうぞ、闇の気配が頭をさする。……撫でられて、いる?
〈ぬしは いい子。……われも守っちゃる けの〉
今まで聞いたことのないその内容に目を見開く。惚けている間にヤハンの身体はまたくるりと動いて、背中へ回って、そうして私の左肩からぬばぁっと顔を出した。
〈生気、戻れば おどかせる!〉
「……あはははっ!」
なんてことはない。私のゴーストはいつもどおりだった。そのことになんだかとても安心して、嬉しくて、私の喉からは笑い声が上がる。胸をどれだけ大きく上下させても、もう、呼吸が苦しく引き攣れることはない。ヤハンはそんな私の顔を覗き込むと、目をきゅっと細めて、驚かしが今まさに成功したかのようにけらけらと笑った。
ふたりぶんの笑い声が、砂みたいな小さな粒になって、夜の水底にざらざら、手触りも愉しく溶け残っている。