一次創作

萌しのキャンディ・ベリー

 学校には来ないのにって思われるのが嫌だから、明日のお祭りには行かないの。
 晴架がそう答えたら、お狐さんはなんだか悲しそうな顔をして、それから真面目そうな顔で何か考え込んで、最後に、ぱあっとおっきな花火みたいに笑ってこう言った。
「そしたら、神様の世界のお祭りへ行こうやあ!」

 神様の世界っていうのは、〝この世からちょっとだけずれた場所のこと〟、らしい。
 ある種の神様とか、妖怪、精霊みたいなものたちのいやすいところ……つまりは、お狐さんや、山の河童さんたちみたいなひとがたくさんいる場所、っていうことみたいだ。それなら、確かに晴架にとっては幾分、気が楽かもしれない。
 お祭りの日、家の庭から花火を見ると言って、一人でこっそり外に出た。夏とはいえすっかり暗くなっていたけれど、田んぼの畦や道路に人通りがないことを確かめてから、裏塀をよじ登って乗り越える。待ち合わせの相手はすぐそこに、影のように立っていた。
 こんな暗い時間にお狐さんに会っていることも、お狐さんが晴架の家のこんなに近くまで来てくれることも、とっても珍しくて、それだけで全身がふわふわ軽くなる。
「――はるかちゃん」
 掠れ気味のこしょこしょ声で呼ばれて、手を引かれたと思ったら、もうそこは晴架のご近所じゃなかった。
 蛙の大合唱は消えて、代わりに鈴虫や松虫の澄んだ声が大きく聞こえる。ぐるっと見渡したら、家も、田んぼも、電柱も、それから、どこにいても自分たちを囲むように見えている筈の山々もない。広い、というだけでは表しきれないような、底知れない違和感に包まれていた。
「わしから離れんでね」
 柔らかな声とともに、優しい力で左手を握り直される。
 晴架はこくりと頷いた。お狐さんとだから来たいと思ったのだから、わざわざ離れる理由もないし、離れたいとも思わない。

 歩く度、近所の川辺に生えているのと似た短い草が、足の指をくすぐる。乾いた感触が心地いいから、ビーチサンダルで出て来てよかったと思った。……草履に浴衣じゃなくたって、全然楽しい。あんな綺麗なもの着られなくたって、わたしは気になんかしないんだ。
 振り切るように顔を上げたら、突然、また景色が変わっていた。
 ……いつの間にこんなところまでやって来たんだろう? 色とりどりの提灯が、あちこちでぽわぽわと光っている。赤や、ピンクや、黄色や、緑……晴架の好きな空色のもある。ついさっき見渡したときには、こんな明かり、ちっとも見えなかったのに。
 そのうえ、明かりが灯っていることや、その内の一つがどうやらわたあめの屋台を飾るものだということを晴架が認識した瞬間――また一気に景色が見違えた。こんどは、場所そのものが変わったというよりも、視界の中に情報が溢れたという感じだ。
 最初のわたあめの屋台を手がかりに、それ以外の明かりが照らしている場所――たい焼きや、はし巻きや、ヨーヨー釣りの屋台――がはっきりと輪郭を持ち、そして、それらの屋台の間に街灯のように聳える高い笹の枝から、まるで木の実のようにたわわに吊り下がった愛らしいランプの数々までも見つけることができたのだ。
「――すごい!」
 晴架が素直に声に出すと、お狐さんも嬉しそうに笑った。
 その声が、なんだかずいぶん遠くから聞こえたような気がして、思わず隣を見上げる。そんな筈ない、手だってちゃんと繋いだままいるのに。でも、やっと目が合ったお狐さまは、やっぱりいつもよりも遠く見えた。
 お狐さんのお家で遊んでいるときは、隣に座っていたり腰を折って目線を合わせてもらったりすることが多いから、忘れていたのだ。そういえばお狐さんは、すごく背の高いひとだった。最初に出会った日の印象を、今、久し振りに思い出す。
 こうやって、隣をずっと歩いていると、晴架のお母さんやお父さんよりも、顔が遠くに見えるような気がする。そう思ったらなんだかじっとしていられないような感じがして、繋いでいるのとは反対の手でも、お狐さんにしがみついていた。
 お狐さんは足を止めて、ぐっと屈み込んだ。いつもみたいに近付いた顔が、晴架を覗き込む。その仕草も、微かなお香の匂いもいつもどおりなのに、夜の暗さと提灯の明かりのせいで、なんだか少しだけ知らない人のように見えてしまう。
「はるかちゃん、……怖い?」
 でも、そう聞いてくる、泣いた後みたいな柔らかい声は、やっぱり晴架の気持ちをすっと撫でて落ち着かせてくれるのだった。
「……あのね、……お狐さんがいつもより遠かったから、ちょっと嫌だった」
 晴架が伝えると、お狐さんはふーっと目を丸くした。猫みたいな瞳が、ちらっと明かりを反射する。晴架の目の前で、その驚きの表情はみるみるほどけて――いつだって晴架を安心させる、あの、なんだかぜんぶ大丈夫って言ってもらえそうな笑顔に変わった。
「それかね……。ごめんねえ、寂しゅうさしてしもうてから……はあ大丈夫よ、ほら、抱っこしょう」
 そう言って両腕を広げてくれる姿は、もはや全くいつもどおりの、晴架のよく見知ったお狐さんだ。ようやく、そう思えて、安堵と嬉しさのあまりその両肩に抱きついた――けれど、そのまま抱え上げられそうになったところで慌てて首をぶんぶん横に振った。
 本当は許されるままに抱っこされたかったのだけれど、晴架自身がどうしても、人前で誰かに抱っこされるということを恥ずかしくて受け入れられなかったのだ。
 お狐さんは不思議そうにしたけれど、すぐに合点がいったみたいで、ふわっと笑った。
「だいじょうぶよ。ここにゃあ、はるかちゃんを知っちょう人はだあれもおらんのんじゃけえ。はるかちゃんにいじわる言うてくるのはおらんよ」
 おってもお狐さんがぶっ飛ばしちゃるけえねえ、と頭をわしゃわしゃ撫でて肩をぽんぽん叩かれる。髪を綺麗に結んだりしていなくてよかった。晴架はそんなことだけ考えて、お狐さんの言葉を聞き流した。
「……一緒に歩く」
「そっかあ。疲れたりしたら言うてよ? 抱っこでもおんぶでも何でもしちゃげるけえね」
 お狐さんは、意外とあっさり引いた。最後にもう一回、晴架の頭を撫でて、……撫でて、撫でて、それから立ち上がった。
「じゃあ、行こっかあ」
「……うん」
 改めて差し出された手を、取る。少しの隙間もなくぎゅって握られて、晴架の不安はぜんぶぶっ飛んでった。

 黒い夜の匂いに、ぴかぴかやわっこい明かりが幾つも幾つも浮かんでいる。さっきいた草原と違って、ここの地面は土が剥き出しだ。サンダルの中にちょっとだけ砂が入っているけど、痛くはないからそのままにした。
 今日、晴架の町でやっている筈のお祭りとは違って、ゆっくり歩いてもちっともひととぶつからない。たくさんひとの気配はあるのに、不思議だ。まるで、みんなが自分のペースで歩ける自分だけの道を持っていて、そうして、その道どうしは絶対に交わることがないという掟でもあるみたいだった。
 それぞれが好き勝手に行き交って、ざわざわと楽しげな喧騒を醸し出している。晴架のところのお祭りでもよく聞くような、笛や太鼓の音も聞こえていて、それが、とりとめのないざわめきを一つのBGMとして纏め上げていた。
「はるかちゃん、どれが好き?」
「……うーん……」
 お狐さんは屋台の列を眺めながら、お家で〝どの色の折り紙を使う?〟とか〝今日のおやつはどれがいい?〟って聞くのと同じ声で、晴架に聞いた。でも、晴架はいつもみたいに楽しい気持ちにはなれなかった。
 今まで見た屋台はどれも別に好きじゃないなあ、という振りをして目を逸らした。晴架は本当は、はし巻きが好きだ。去年、いとこがお土産に買って来てくれたのが美味しかったから、いつか、もう一回食べてみたかった。晴架は果物が好きだから冷やしパインにも心惹かれたし、たい焼きは粒あん派で、大判焼きはもっと好きだ。スーパーボールすくいのプールがきらきらしているのに目を奪われそうになって、慌てて顔ごと反対側に背けた。
 お母さんと来ていたらきっと、そんなに見ても買わないよ、って言われてしまう。買ってほしくて見てるんじゃない。ただ、きれいで。それに、夜ご飯だって食べたから、お腹も空いていない。お狐さんには、お腹空かしといでよって言われていたけれど、ご飯を食べずにこんな美味しそうな匂いを嗅いだら、きっとお腹が鳴ってしまった。お狐さんに嘘を吐いてよかった。
 晴架はほんとうに、お祭りを歩けるだけでよかった。みんな楽しそうで、提灯も屋台の明かりもきらきらしてる。涼しい夏の匂いと、香ばしい煙の匂い。それをめいっぱい吸い込むだけで晴架も楽しくなった。すれ違う子どもがみんなかわいい浴衣を着て、屋台で売っていたぴかぴかするおもちゃを首から提げていて、大きなわたあめの銀色の袋を持っていても、晴架にはそのどれも必要じゃなかった。だから、何も買わなくたって今年もお祭りに行きたかったし、お狐さんが連れてってくれると言ってくれて嬉しかった。晴架はただお祭りを歩けるだけでいいのだ。
 わたしは何も要らない。
「――あっ! はるかちゃん、こっち。来て来て」
 不意に、お狐さんが弾んだ声を上げて、晴架の手を引いた。
 お狐さんが何を見つけたのか分からなかったのは、晴架がそっぽを向いていたからなのか、お狐さんは背が高い分、晴架より遠くを見通せるからなのだろうか。ともかく、お狐さんは、小さな子どもを人波から守るように道を作りながら、まだどこか分からない〝そちら側〟へ、晴架を連れて行った。

 そこは、屋台の整列する通りから少し外れた、小さな空き地みたいなところだった。そこだけ街灯代わりの笹が立っていなくて、穴が空いたみたいにぽっかり薄暗い。
 今までと同じ感覚で足を踏み出したら、ざり、とサンダルの底が擦れた。アスファルトだ。だから、土の地面よりも暗く見えたのか。
 晴架の世界で言ったら駐車場みたいなところかと思うけれど、この世界には車はないのか、あったとしても今日は駐禁なのかもしれない。少なくとも自動車は一台もなくて、自転車もなくて、人も妖怪もいなかった。
 たったひとりを除いては。
「りーん!」
 お狐さんが嬉しそうに叫ぶ。
 広くない空き地の隅っこに、一つだけ露店があった。
 晴架は咄嗟にそれをお店だと判断したけれど、すぐに自信がなくなった。通りにあったほかのお店たちとは雰囲気が違って、テントも看板もなかったからだ。何か物を並べてあるらしい長テーブルの向こうに、誰か蹲っているような気配がある。
 晴架たちがそちらへ近づこうとすると、その誰かは、ぬっと立ち上がった。晴架は思わずびくっと肩を跳ねさせた。それは、手を繋いでいるお狐さんにも気付かれてしまったみたいだ。
「〝りん〟よ。はるかちゃん、覚えちょう?」
 繋いだ左手を、安心させるように上下に振りながら、お狐さんがこっそり晴架の顔を覗き込んできた。りん――りんさん。燐さんだ。前に会ったとき、マッチの〝燐〟と同じ漢字だって言っていた。
「……ゼリーくれたひと……」
「そうそう! こないだ、はるかちゃんがようお礼言うちゃげてくれたひとよ」
 こんどは嬉しそうに左手をふんふん振られて、晴架は困った。お礼を言うのは何かをしてもらったお返しだから、お礼を〝言ってあげた〟という表現をされると、晴架自身はどこにいればいいのか分からないような気持ちになってしまう。
 そんなふうに二人でこそこそしているうち、〝燐さん〟はすぐ近くまでやって来た。晴架のことを覗き込んでいたお狐さんが顔を上げて、燐さんに向き合うと、晴架の視界もようやく開けて、その姿を間近で見ることとなった。
 夜に溶け込むような暗い色の半袖、襟付きシャツに、暗い色の長ズボン、暗い色のスニーカー。細かいところまでは分からないけれど、初めて会った日とほとんど同じ服装に見える。肌は暗がりで見るからか、記憶にあるより白っぽい。夜に溶け込む暗い色のショートヘア……の頭は、お狐さんと同じくらい高いところにある。目は晴架を見ていなくて、こんどは大人ふたりでこそこそ何か話しだしていた。
 こそこそしているといっても、晴架のほぼ真上で話しているようなものなのだから、内容は聞くともなしに聞こえてしまう。
 〝なんで連れて来てるんだ〟〝人間の子だろ〟と一際強く詰るような囁きが聞こえて、身体が強張った。間違いなく晴架のことだ。
 ……来ちゃいけなかったのかな。晴架が人間かどうかっていうのは、自分ではどうしようもないことなのに、もし、そのせいで悪いことをしてしまっているというのなら、晴架は一体どうしたらいいだろう。
 それに、今、燐さんに矛先を向けられているのは、お狐さんだ。晴架を喜ばせようとして連れて来てくれたのに、そのせいで、お狐さんが悲しい思いをしてしまう……。
「にゃはは」
 そのとき、気の抜けた笑い声が降ってきて、晴架は振り仰いだ。お狐さんは、まるで晴架と遊んでいるときとおんなじ調子で笑っている。その向かいで、きっと真剣に話していたであろう燐さんも、今の晴架と同じくちょっと戸惑っているように見えた。
「燐、はるかちゃんのこと心配してくれようんじゃ」
 ありがとうねえ、と柔らかい声が続ける。目は燐さんの方に向いたまま、繋がった手が晴架をそっと引き寄せて、逆の手が晴架の頭を、だいじそうに撫でてくれた。……お狐さんは、悲しんでないみたい。それなら、よかった。
「……ありがとうじゃないよ。当たり前だろ、お前が生きた人間をこんなとこに連れて来るのなんか、見たことない――」
 燐さんは今度は、晴架にもはっきり聞こえる普通の声でそう言って……けど、晴架の方にちらっと目線をくれると、何かもっと言おうとしたことをごくんと飲み込んだみたいだった。実際に喉が上下して、その後で改めて発せられたのは、たぶん、今飲み込んだのとは別のことだ。
「……仮にここじゃなかったとして、こんな小さい子をこんな時間に保護者でもない奴が外に連れ出してることを、詰問する以外にどうしろっていうんだ」
 そんなふうに言われてみると、なんだかお狐さんが〝不審者〟みたいに思えてくる。晴架は新鮮な思いがして、お狐さんの顔をまじまじと見つめてしまった。
 けれど、当のお狐さんは何でもないように、
「まさにそれよ」
「は?」
「あっちの世界じゃと、二人で出歩くわけにゃーいかんじゃろ? それこそ、保護者でもない大人がはるかちゃんを連れ回しよると思われてしまう」
「……思われてしまうというか、それは事実だからな」
「じゃろ? その点、ここなら幾ら見られたところで咎められることもない。寧ろ、わしの仲良しさんよ〜って見せつけちょけば、今後、何かしら不便が減るやも」
「……ああ、そういうこと……」
 晴架には、途中からよく分からなかったのだけれど、燐さんには、そのお狐さんの言い分は納得できたらしかった。
「……けど、連れ出してることに変わりはないだろ。あっちの世界にこの子がいなくて……心配、掛けるんじゃないのか」
 燐さんが、何か躊躇うような細い声で、お狐さんに訊ねる。実際、その質問には晴架でも答えられはしたのだけれど。
「だあいじょうぶ。どれだけここで過ごしても、あっちじゃ二、三秒くらいのことじゃから」
「……そうだっけ。人間はそうなのか……?」
「うん。……わしがおりゃあね」
「……そうか」
 お前がいれば、と呟く燐さんに、そう、とお狐さんが答える。
 いよいよ全てを得心したらしく、燐さんはこっくり頷いた。そして――その目が、今日初めて、真っ直ぐに晴架を見下ろす。
「……晴架。言うのが遅くなって申し訳ない、けど……いらっしゃい。よかったら、俺の店も見てってえよ」

 燐さんの店先には、ほの青い明かりが二つだけ点いていた。蜜柑くらいの大きさの光の塊が、ぼんやりと揺らぎながら浮かんでいる。
 晴架とお狐さんが露店の真ん前に踏み入れた瞬間、机の上がふわっと白んで、そこだけが夏の夜明けの窓辺みたいに、くっきりと浮かび上がって見えるようになった。不思議なことに、遠目では何かが所狭しと並べられているように思われたそこには、近くで見てみると何も置かれていない。ただ、巨大な月長石みたいな天板が、静かに白く光っている。
 どうぞ、座って、と燐さんが晴架の後ろを指差したと思ったら、さっきまでなかった筈なのに、そこには一脚の椅子が現れていた。お狐さんが両手で椅子の背を支えてくれるから、晴架は少し縮こまりながらも腰掛けた。
 背もたれはあるし、真っ白で、ふかふかで、今ここにあるのは場違いみたいな椅子。テーブルを挟んで晴架の斜め向かいに座った燐さんの、スチールの丸椅子とも全然違う、上等なお客様用みたいな、それでいて晴架にぴったりの高さの椅子だった。
「……晴架。俺が持ってったゼリー、美味しかった?」
「は、い」
「そっか。何味、食べた?」
 燐さんの低い声は、なんだか地面から足の裏を伝わって、直接身体に響いてくるみたいだ。声が大きいわけじゃないのに、言っていることがはっきり分かる。落ちる前の雷みたいに低いのに、怖いとは感じないのは、ゆっくり優しげに話してくれるからかもしれない。
「……いちご」
「いちごか。苺が好きなの、晴架」
「……ん、……苺も好き、だけど、いちごゼリーがもっと好き」
「そうなんだ。じゃあ、あの中に苺ゼリーがあって、よかった」
「……よかった。お狐さんがとっといてくれたの」
「そっか。嬉しかったね」
「うん……」
 燐さんは静かに話しながら、晴架の目を見ない。身体は緩くこちらを向いているけれど、その視線は彼自身の手許――テーブルの上に注がれている。
「じゃあ、晴架。苺の飴は? 食べれる?」
「……? 好き。食べれる。……『いちごみるく』が美味しいよ」
「……ああ、三角の。さくさくしてるやつだ」
「! わかるの!」
「もちろん。よく売ってるもんな」
 そっか、晴架はあれが好きなんだな、と呟いたかと思うと、燐さんが不意にこっちを見た。ばちっと目が合って晴架は狼狽える。燐さんがテーブルの上ばかり見ているから、晴架は安心して燐さんの顔を直視していたのだ。こちらを見られながらお話するのは苦手だ、とても困る。まして燐さんの目は不思議に青く光って、晴架なんか全身丸ごと呑み込まれてしまいそうなのだ。どうしよう。どうしよう。一瞬で頭がパンクしかけた晴架より、けれども先に、燐さんはすっと視線を逸らした。……助かった、と晴架が思う間もなく、燐さんは視線を手許へ落としてこう言った。
「――三角ではある、と思うけど……これは、どう?」
 ずい、と目の前に差し出される。燐さんが左手に持っている、且つ視線を注いでいるそれ、に、晴架もばくばくした心臓を抱えたまま目を移した。
「……いちご?」
 晴架は自分を落ち着けるため、目の前にあるものを小さく言葉にした。
 丸のままの、果物の苺。それが一つ、割り箸みたいな細い棒のてっぺんに突き刺さしてある。苺は、晴架のおばあちゃん家の畑に成っているのよりも大きい。確かに、綺麗な三角でつやっとしている。いや、つやっとしているのは……苺の表面が、何か透明な、きらきらした硝子のような、ぷっくりした水のようなもので、すっかりなめらかに覆われているからだ。
 晴架の目は、ついでに心は、すっかりその綺麗な透明に奪われてしまった。緊張のばくばくが、いつの間にか弾むようなどきどきに変わっていた。
「俺が作った〝苺飴〟。……どうぞ」
 どうぞと優しく言われて、晴架は考える前に手を伸ばしていた。棒を握り締めると、燐さんの指がそっと離れていく。棒付き苺飴は、晴架の手に渡った。月光を固めたみたいなテーブルに照らされて、苺はなおも煌めきを失わず、それどころかいっそううるうると輝いて見えた。
「……飴じゃけえ、食べてしまって。口に合うか、分からんけど……」
 燐さんの気まずげな声が聞こえて、晴架ははっとした。見惚れてしまって、思わず受け取ってしまって、お礼も何も言っていない。
「わ、よかったねえ、はるかちゃん。綺麗なそもらったねえ」
「う、うん……ね、綺麗だよね」
「ね。それに、食べれるんじゃって。齧ってみ? さくっと割れるけえ」
 え、そうなのかなあ。割れるってどういうことだろう。硝子みたいに透明な部分は、きっと飴なのだろうとは思うけれど、なかなか厚みがあるように見える。齧りついても大丈夫なのかな……。
 でも、お狐さんは意地悪を言ったり嘘で揶揄ったりはしないから、晴架はそれをどきどきしながら信じた。燐さんも何も言わないから、たぶんそれが正解の食べ方なのだ。
 飴をそっと口許に寄せ、歯を立てた瞬間、予想と違う食感に瞬く。
 ――何だろう、これ?
 そのまま噛み砕くと、はちん! と軽やかな音を立てて、飴は〝割れた〟。
 まるでサイダーの泡のように。
 水面のように全く硬さのなかった飴の次に、歯は〝しゃりり〟と苺の身を削り取った。かちんと前歯が合わさって、そのまま咀嚼へと移行しながら、晴架は目をまんまるくしていた。
 何だろう、これ!
 泡のように簡単に割れた透明は、しかししゃぼん玉のように中が空洞だったわけではなく、何か、こぼれない液体のような、冷たい湯気のような、不思議な〝味〟となって口の中いっぱに流れ込んできた。それは、一度割ったのにもかかわらず、割り箸のてっぺんに残る苺をまだたっぷりと覆っている。不思議な思いで噛み締めると、しゃりしゃりとした苺の食感と混ざり合って、積もった雪がゆっくり溶けるみたいにほろほろと崩れてゆく。
 言うまでもなく、生の苺の食感じゃない。冷凍庫で凍らせておいたら、こんなふうになるんだろうか……? 晴架は凍らせた苺を食べたことがないから分からない。けれど、凍らせたのなら、もっとひどく冷たいんじゃないのだろうか。
 夏の猫の肉球くらいの、柔らかな冷たさの苺は、ぎゅーっとめいっぱい甘酸っぱい。つぶつぶの果実は、噛んだらぱちんと弾けて消えてしまう。なんだか「わたパチ」みたいだ。おまけに、果肉が雪のようにほどけてジュースみたいになっていくのをこくこく飲み下していると、少しミルクっぽい、もったりした風味まで鼻を抜けた。いちごみるくの話をしていたから、そんなふうに思い込んでいるのだろうか……?
 ごっくんと最後の一滴までを飲み込んで――晴架はぎゅーっと目を閉じて、それからぱーっと見開いた。美味しい名残を味覚で追い掛けるのに没頭して、それからその美味しさが嘘じゃなく、間違いなく事実であったことを確信し感激して目を開けたのだ。
「――おいしい……!」
 目を開いた先に燐さんがいたから、晴架はただそのまま真っ直ぐに向かって感動を解き放った。
 燐さんは、ふ、ってちょっと笑ったみたいだった。燐さんの笑う顔を初めて見た。不思議な瞳が柔らかく細まって、青い眼光が睫毛に乗り移ってきらきらしている。晴架はその様を真っ直ぐに見つめながら、今、ぜんぶがきらきらしているのもこの苺飴の効果なんだと思った。すごい。すごい!
「よかったねえ、はるかちゃん」
「うん……すごい……! おいしい、すごい! 燐さん、これ作ったの……?」
 すごい、すごいとそれだけを繰り返す口が止まらない。箸に刺さっている苺飴をじっくり見つめる。うるんとした透明は、晴架の齧った跡をすっかり覆ってしまっている。二口目をどこから齧っても、またあの〝はちん!〟が味わえるのだ。すごい。どうしよう。
「……もう一個お土産に作っちゃるけえ、そっちは今、食べてしまい」
 燐さんが、さっき晴架を急かしたのと同じ声色で言ったから、それはもしかしたら気まずい声じゃなくて照れた声だったのかもしれない、と晴架は思った。お狐さんみたいにころころ大きく変わる表情ではないけれど、それでも確かに、燐さんは今、晴架に向けて優しく笑ってくれていた。
 晴架はふわふわした心地のまま頷きそうになって、はっと思い止まった。晴架はお小遣いを持ってない――それなのに、売り物の飴をもらっちゃった。おずおずとお狐さんを見上げようとすると、晴架の視線が到達するよりもうんと早く、お狐さんは晴架の隣へ膝を折ってしゃがみ込んだ。
「買うちゃげる買うちゃげる、何個でももらいい、ね、はるかちゃんのこねー嬉しそうな顔を見られて、本当によかった……」
 晴架の頭を、今日でいちばんむちゃくちゃに撫でながら、お狐さんは、お狐さんの方こそ本当に嬉しそうな声で言った。むちゃくちゃに撫でられているせいで目の前の顔さえよく見えなかったのだけれど、元々泣いた後みたいなしゃがれた声をしているものだから、一瞬、本当に泣いているんじゃないかと思った。
「お燐よい、これいーくらっ」
「あー……えっと……五円?」
「やす! そんなぁ、じゃチップ弾んじょくねえ」
「じゃあ五千円」
「たっっっ……!? えっと、ちょっと……ちょっと待ってよ……」
 若干蒼白い顔で長財布を漁り出したお狐さんに、無い袖振ろうとするな、と言い出しっぺの燐さんが呆れたような声を掛けた。
「冗談。三個で十円ね」
「おり〜ん……!」
 助かったあ、と言うお狐さんを横目に見たら、今度こそ本当に泣いて喜んでいる。燐さんもお狐さんの大げさなのには慣れてるのか、全く動じることなく小銭を受け取って、代わりに、晴架のと同じ苺飴を一つ手渡した。
「えへへ……わしももらっちゃった〜。一緒食べようやあ、はるかちゃん」
「うん」
 椅子に座った晴架と、しゃがんだお狐さんとで並んで、あーんとそれぞれの苺飴を口にする。
「!」
「ん〜……! おいし〜!」
 晴架は二口目でもその美味しさにただただびっくりしてしまって、お狐さんはというと、いつもみたいに豊かな表情と声色とで幸せをこれでもかと大きく表している。
 晴架も……晴架も、そのくらい美味しいと思っているのにな。晴架はコミュニケーションが下手くそだから、きっと燐さんにちっとも伝わってないんだろう。こんなに美味しいのに。綺麗なのに。感動してるのに。
 ……しゃりしゃり、ほろほろ、こくん。
「り、りんさん」
「どうした、晴架」
「……あの、あ、……おいしい……です……」
「……ありがとう。よかった、口に合って」
 こんなに喜んでもらえてほっとした、と静かな声で燐さんは言った。
 その顔が優しげなのに、どことなく陰っているように見えたから、晴架はなんだかむずむずした。
「あの……」
「うん?」
「ありがとう、燐さん」
 このむずむずが何なのか分からなくて、それはもどかしくて、このひとがしてくれたことにどれだけ晴架が嬉しいと思ってるのか、それを伝えられないのはとても悔しくて、だから晴架は頑張った。すごく頑張った。
 相手の目を真っ直ぐに見て、お腹に力を込めて、飴の棒を持つ両手をぐっと握り締めて、はっきりと一音一音聞こえるように、声を出した。
 ……つもり。
 ……あっ、挨拶するときは、笑顔じゃないとだめなんだった……と思い出したのは後の祭り。またパニックになりかけた晴架の、手を、突然、何かが触れた。
「大丈夫」
 見ると、燐さんの手だった。表面が冷たかったそれは、晴架の手と重なって微動だにしないうち、少しずつ、人の手らしくあったかくなっていく。
「伝わってる。伝わってるよ。晴架が喜んでくれたのも、楽しんでくれたのも、全部伝わってる。……ごめんね、俺が……ちゃんと返事、できてなかったから。不安にさせた。本当に、ごめん」
 燐さんの手は、お狐さんがするみたいに晴架を撫でるでもなく、ただじっと、晴架の手の甲に指の背で少しだけ触れている。こちらを見つめる青い光は揺れていて、晴架は目を逸らしてあげなきゃいけないような気がした。それなのに、そうしてあげられなくて、それどころか、またあのむずむずした気持ちが湧いてくる。
 ……喉から手を伸ばしたいような、伸ばせないような、そんな気持ちだ。
「……わたし、人に伝えるのへただから……」
「そんなことない。いろいろ考えて、伝えようとしてくれた。へたとかないよ。晴架の伝えてくれたこと、全部しっかり伝わってる。嬉しいよ俺。それをちゃんと言えなかったから、俺が悪かった」
「……うん」
「ごめんね、晴架」
「……伝わったの? わたしがほんとに美味しいと思ってるの、ちゃんと伝わった?」
「当たり前だよ。あんな嬉しそうな顔してくれて、『おいしい』ってはっきり言ってくれただろ。これ以上ないよ。……俺、あんまり嬉しくて、声が出なかった」
「……おんなじだ。わたしも、嬉しいと声、出ないよ」
 ふふ、と思わず笑ってしまう。燐さんはそれで安心したのか、そっと手を離して……ゆっくり、微かに笑ってくれたようだった。
「……燐と仲良うなれた? はるかちゃん」
 横から、柔らかいお狐さんの声がして、晴架は首を竦めた。
 ……なりたいな。けど、なれたって言うには、まだまだなんだろう。きっと、燐さんはそんなふうには思っていないし。
 でも、首を横に振ったりなんかはできない……したく、ない。さりとて軽々しく頷くこともできない。ただ、恥ずかしくてくふくふ笑っていると、テーブルの向こうから低い声がした。
「これからだよ」
 何でもないことのように、静かに置かれた声。
 はっと晴架が顔を上げると、燐さんも、伏せていた目をちらりと上げた。上目気味の視線が晴架を捉える。青い眼光が睫毛に乗り移っている。……ね、と柔らかく頷くように小首を傾げて囁かれて、晴架は声が出なかったから、俯くようにただ頷き返した。
 お狐さんは「そりゃあ楽しみじゃねえ」と言葉どおりに声音を弾ませて、晴架の頭を撫でた。俯く晴架の斜向かいから、ふ、と柔らかな吐息が漏れ聞こえた気がした。
「……それと、さん付けはしなくていいよ。俺もほら、晴架って呼んでるし。俺のことも、呼び捨てでいい」
 穏やかな声に続けられて、晴架は少しの間、固まった。
「…………燐、ちゃん」
 ようやく絞り出したのは、苦肉の策だ。大人のひとを呼び捨てにするのは、緊張してしまってどうしてもできなかったけれど、相手ともっと仲良くなれる機会かもしれないと思ったら、それをみすみす手放してしまうこともできなかったのだ。
「かわええ~〜!」
 すると、晴架の呼び掛けた相手を差し置いて、なぜかお狐さんが真っ先に反応した。
「え〜っ、かわいい……かわいい! 燐ちゃん……ふふ、わしも呼んじゃおうかなあ」
「お前はやめろ」
 くふくふとはしゃぎ倒す第三者へ静かに拒否を突きつけた後、その同じ目はふっと和らいで、晴架の方へと向いた。
 呑み込まれそうだとは、もう感じなくなっていた。ただ、青く透き通った池みたいに、吸い込まれそうに綺麗だと思うだけ。
「晴架なら、いいよ」
 ……燐ちゃん、は、そう言って、少し困ったみたいに、けれど優しく晴架へ笑い掛けてくれた。

 くるくる、燐ちゃんの左手の人差し指が持ち上がって、空中で見えない糸を巻き取るかのように軽く回る。続けて、その手が月長石のテーブルを一撫でしたかと思うと――撫でた後の、そう、テーブルのその〝中に〟、真っ赤でつやつやな苺が一粒、現れていた。
 淡白い月光で満たしたショーケースに抱かれるみたいに、大粒の苺が眠っている。その隣を、今度は右手の指が綺麗に揃ったまま、横一文字にすっとなぞる。すると、その軌跡に細長い棒が現れる。燐ちゃんはその端をそのまま右手で掴むと、月長石のテーブルへ――その中の苺を目掛けて、流れるように突き刺した。
 左手が水を掬うように動くと、月光に寝そべっていた苺がくるんと向きを変える。赤い果実の泳ぐふちを、まるで水を切っているかのように、銀色の微かな細波がふちどってちろちろと輝く。苺はとんがった方を下にして、へたの取れた白い底を上へ向けた。そこを箸の先がぴたりと捉え、へたの名残を綺麗に貫く。透明な、小さなあぶくが幾つも幾つも立ち込める。
 燐ちゃんが箸を引き揚げると、しとどに垂れる蜜のような光を纏いながら、苺は晴架の目の高さに現れた。とんがった先の、いちばん甘い方は横を向いている。燐ちゃんの左手が、再び見えない糸を巻きつけるかのように、苺のてっぺんへ向けてさらさら軽やかに指を繰る。上から照らすお店の明かりを反射して、つやりと一際強く苺が光る。その光輝を隠すように燐ちゃんの左手が一瞬、過る、それを自然に振り払うように右手が箸を起こす。
 左手のベールの向こうから現れたのは、ふっくりとしたあの透明を豊かに纏った、〝苺飴〟だった。
「――っ」
 テレビで見たマジックみたいなことが目の前で起こっていて、晴架は瞬きを忘れていた。さっきは燐ちゃんの顔ばかり見ていたから、その手許で何が起きているのかに全く注意が向いていなかったのだ。
 赤い果肉までもが光を透き通すようで、見たことはないけれど、宝石みたいだと思う。それか、それよりももっと綺麗だ。少なくとも、晴架はルビーやガーネットを見たことはなくて、この苺飴をは今、見てる。晴架が見たことのある中で、間違いなくいちばん綺麗な赤色だった。
「……す、ごい。すごい、燐ちゃん……」
 晴架はようやく、まさに釘づけとなって固まっていた身体を動かして、いっしょうけんめいに拍手を送った。燐ちゃんは苺飴を月光の水中へくぐらせながら、照れてるのか、気まずそうに呟く。
「これは、……道具も作り方も材料も、全部、ひとから預かってるもので……だから、すごいのは俺の力じゃないんだよ」
 月の海から上がってきた飴は、よりふくよかに月光を蓄えて、まるでまろやかなビー玉みたいだ。
「作ってくれたのは燐ちゃんだから、燐ちゃんもすごい」
 できたてのお土産を受け取る前に、手許にある飴を食べてしまわなくちゃ。一口の大きさが全然違うから、お狐さんの方はとっくに自分のを食べ終わってしまったみたいだった。晴架を急かすでもなく、お狐さんは幸せそうに燐ちゃんの手つきを眺めている。
「それっちゃ。上手い者がやらんにゃーこねー綺麗にゃあならんろー。やっぱし燐の腕がええそいね」
「……子どもの前でジジイを褒めてどうすんだ」
 晴架は二人の声を聞くともなしに、飴を味わっている。燐ちゃんはそんなふうに言うほど歳を取ってるようには見えないけれど、お狐さんもたしか、何百歳……? と言っていたから、燐ちゃんがそうでもおかしくはないのかもしれない。
「……燐ちゃんも、妖怪?」
 きちんと口の中のものを飲み込んでから、晴架は燐ちゃんに訊ねた。
「……そう、だな。俺は化け狐。……化け狐って、妖怪に分類されるんだろう、な? たぶんそう」
 ちらりと伺われたお狐さんも、たぶんそう、と頷いている。
 けれど、晴架にとっては化け狐が妖怪かどうかということよりも、もっと気になったことがあった。
「きつね……」
 晴架は燐ちゃんの顔をじっと見て、次に隣にいるお狐さんの顔をじっと見て、それからもう一度、燐ちゃんの顔をじっと見た。
「……ふ、……狐は狐でも、俺とこいつとじゃ種類が違うけえね」
 考え込む晴架がおかしかったのか、燐ちゃんが柔らかく笑うような吐息を吐いた。言葉は挟まないまでも、隣からも同じような息遣いが聞こえてきたので、晴架はちょっと気恥ずかしくなる。
 燐ちゃんはばかにしたふうでもなく、静かな遠雷みたいな声で続けた。
「こいつはこの姿が本性じゃけど、俺は人間の形に化けちょうだけなんよ。……こいつは狐の姿とこの姿にしかならんけど、俺は人でも物でも、何でも化ける」
「……じゃ、燐ちゃんのお耳が人間の耳なのも、人間に化けてる、から?」
「おお、そういうこと」
 晴架はもう一度、お狐さんの耳――中の皮膚はピンク色で、後ろは黒くて短い毛、付け根はふわふわの白い毛で覆われている、三角形の、狐の耳――と、燐ちゃんの、複雑な凹凸のある人間の耳とを、そっと見比べた。
「……燐ちゃんは化けるのが上手なんだ」
「……わ、わしが下手なわけじゃないよ?」
 元々こんな形なだけ……とお狐さんがしおしお言う。晴架は、うん、と頷きながら、再び飴に夢中になった。燐ちゃんのことを一つ、知れて、苺がもっときゅうっと甘くなった気がする。
 自分がお腹を空かせていなかったことなんか、晴架はすっかり忘れてしまっているのだった。
「……で、でも。燐が化け上手っちゅーのは本当じゃ。化けるだけじゃのーて、燐はほんとうにすごい。何でもできる。本当にすごいんじゃ」
「適当言うな。できることしかできん……」
「何でもできるんじゃけえ、できることができるんなら充分すぎるくらいすごい」
「じゃけえ何でもはできん。化けることしかできんっちゃ」
「それがすごい。それでもすごい。燐は頑張り屋さん。かわいくて、頼もしくて、優しくて、かっこよくて、すごい。もしも何もできんことなったとしても、わしは燐が大好きじゃ」
「ええ加減にせえよお前……ほら、晴架も食べ終わった」
 食べるペースをしっかり見られていたことに、恥ずかしくなったけれど、同時にふわっと嬉しくもなった。晴架が、ごちそうさまを伝えて、食べ終わった箸と引き換えにお手拭きをもらって、指と口許を拭いている間も、しかしお狐さんはまだ揚々と話を続けている。
「はるかちゃんは、かわいくて、好きなことにいっしょうけんめいで、人の気持ちをたくさん考えてくれて、楽しそうに笑うちょるお顔が本当に素敵で、かわいくて、かわいくて、すごい。ね、はるかちゃん。はるかちゃんのことも、わしゃずーっと褒めちゃげるけえね。はるかちゃんが今よりもっとお姉さんになっても、大人になっても、おばちゃんになってもおばあちゃんになっても、ずっとずーっといーっぱい褒めちゃげるけえ。安心して大人になりさんよ」
 晴架は、燐ちゃんにお礼を言ってお手拭きを渡しながら、こくっと頷いた。自分が大人になるだとか、ましておばあちゃんになるだとかは全く想像がつかないけれど、目の前で燐ちゃんをすごく嬉しそうに褒め称えているお狐さんを見ていたら、本当にそうなるんだろうなあとは思ったから。

「――晴架」
 お土産用に袋を掛けた苺飴を持たせてくれながら、燐ちゃんがそっと目を合わせてきた。
「……お祭り、楽しんで。いろいろ見て回ったり、あわよくば買ってったりしてくれると、店出しちょう俺らは嬉しいし……何より、こいつが、」
 そう言いながら、晴架の斜め後ろにいたお狐さんを指す。
「仲良うなった相手のことを喜ばしたくてしょうがない奴じゃけえ。たくさんおねだりしちゃって。そんで、晴架を喜ばしたいっちゅうこいつのわがままに付き合うちゃって」
 よろしくね、と呟いて、燐ちゃんは晴架の手の中――持たせてくれた苺飴の上に、指をかざした。爪の短く揃えられた綺麗な指先から、微かな光る風が降りてきたかと思うと、飴の透明の中に、ラメか雲母みたいな銀色の細かなきらきらが掛かった。
「……! ありがとう……!」
「どういたしまして。……でも、それはこっちの台詞だよ。ありがとう、晴架」
 お礼を言われることをした心当たりがなくて、晴架は首を傾げた。けれどその拍子に、何かが視界の端を明るく照らしたような気がして、そちらへ気が逸れる。
 振り向くと――空き地の反対側、暗がりの向こうに、ぽつ、と黄色い明かりが一つ見えた。蛍、にしては明滅がないうえ、大きすぎるような気がする。でも、ここは燐ちゃんのお店以外に何もなかった筈だし、あればすぐに気が付くほどの小さな空き地だった筈だ。
 不思議に思って目を凝らすと、
「……!」
 ぱぱぱぱぱっ!
 黄色い明かりの向こうに赤い明かりが、赤い明かりの向こうに紫色の明かりが、そのまた向こうには白い明かりが――幾つもの、幾つもの光が、まるで薄い紙が色水を吸い上げるように、こちら側からうんと遠くの方まで一気に広がりながら灯ったのだ。
 視覚に一足遅れて、耳からも、そよそよとしたひとのささめきが入ってくる。
「……ここの品物気に入ってくれたなら、こっから奥の店も覗いてみりゃええ」
 燐ちゃんの指が、その新たに灯った光の方を指す。
 きらきらしてる。だけど静かで――〝幻想的〟って、きっとこんな感じのことだ。方々から漏れる淡い光の合間、しゃぼん玉なのか、硝子なのか、まあるい泡がたくさん浮かんでいたり……それからあれは……紫色の夜の中に、赤い金魚が泳いでる……?
 ――早く、向こうへ行って見てみたい!
「燐、ありがとね。また、はるかちゃんのおるときにもおいでよ」
「……あー……それ、は……」
 大人どうしが挨拶を交わしているのが聞こえて、晴架は慌てて振り返った。
「燐ちゃん」
「、うん……」
「……、……またね!」
「っ……、ありがとう。……またね、晴架」
 晴架の心は、ぴょんぴょん跳ね回った。まるで、猫じゃらしを一心に追っ掛ける子猫みたいに。
 微かだけれど、柔らかい、優しい笑顔に見送られて、晴架はぐいっとお狐さんの手を引いた。

  *

 ふわりと身体が浮く感覚。一つ瞬きをすると、白っぽい電気が煌々と灯る、台所の土間に立っていた。
 見知ったお狐さんのお家。元の世界に帰ってきたのだ。
「――はるかちゃん、」
 覗き込んでくるお狐さんの顔が、吊り目の端っこをこれ以上ないってくらい下げてくしゃくしゃに笑っていたから、それを見ただけで晴架は、お狐さんが晴架に言いたがっていることをばっちり分かってしまった。
「楽しかった!」
 聞かれる前に答えたら、お狐さんは一瞬だけ目を丸くして、そうしてまたすぐに、くしゃあって笑った。「そっか、そうかあ、えかった、……えかったあ……」何度も何度もそう言って、晴架の頭をくしゃくしゃ撫でて、肩をわしゃわしゃさすって、二人で持って帰ってきたたくさんのお土産を潰さないようにしながら、晴架のことをぎゅーっと抱き締めてくれた。
「楽しかったかあ、はるかちゃん」
「うん!」
 大きな手はあったかくてうれしくて、汗かくから嫌だーなんてちっとも言う気になれない。
 お狐さんは、晴架の塞がった両手から今夜のお土産を一つ一つ取り上げては、だいじに流し台の横へ並べていく。そうして二人ともの両腕がすっかり空になると、また晴架のことをわーっと抱き締めてくれた。こんどは、晴架の方からも思う存分わーっと抱きつくことができる。
「お狐さん」
「なあに、はるかちゃん」
 何度だって飽きることがないみたいに晴架の名前を呼んでくれる。真っ白なクリスマスケーキに乗っかっている、削ったホワイトチョコみたいだと思う。くしゃくしゃで、甘くて柔らかくてうれしい声。目尻の笑い皺はふんだんにとろけて、晴架のことをこれでもかってだいじにしてくれている。
「……いっしょにいてくれて、ありがと」
 今日のぜんぶ、お狐さんと一緒だからこんなに楽しかったんだ。そのことをどうにか伝えたくて、帰り道にずっと考えていた言葉。ちゃんと言えた。
「はるかちゃん……」
 こちらこそ、と返してくれた声も顔も、笑っているのか泣いているのか分からなかったから、その大げさなのがおかしくて晴架はくすくす笑った。うっとうしがる振りをして、顔を逸らした先、ちらりと銀色のラメが光っている。白々した電気の下でも褪せることなく、赤い苺は艶やかに透き通っていた。
 お狐さんが身体を離そうとした分を、聞き分けのない子みたいにぎゅーっと晴架の方から埋めて、撫でてくれる腕の間から、たくさんのお土産を――宙に浮かぶとんぼ玉や、蜃気楼の金魚や、青く光る水中花や、わたあめや、箸まきや、冷やしパインや、大判焼きや――そして、いっとうきれいな宝物のような苺飴を、見つめた。
 ……とっておいてね、晴架のだからね、食べちゃわないでね。――もちろん。はるかちゃんのじゃけえね、ちゃんととっちょくからね、また食べにおいでよ。

 ……この家の秒針は、外にとっての何秒毎に一つ進むんだっただろう。
 晴架にそれが分からなくたって、晴架をだいじに思ってくれるお狐さんが〝もうお帰り〟って言わないんだから……まだもう少し、あとちょっとだけ、……ぎゅってしていても、いいよね。

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