ぺろ、って。
ほっぺたを舐めて、耳をかじると、「擽ったいよ」と直接鼓膜に伝わる位置から声が返ってくる。
普通に距離を離していればうっかり空気に溶かしてしまう笑い声も、いや、声にならない幽かな吐息でしかないそれも、今はちゃんと零さず拾うことができる。物理的な距離がすべてではないのかもしれないけども、やっぱりスキンシップというのは素晴らしいもんなのだ。偉大。壮大。荘厳にして深遠にして、すごくかなり単純。
単純明快に、恋を伝える。
「ファウスト」
「ネロ!」
今なら言えるかも、好きだよ、とか。そういう単純で基本的なことを。そう直感したので口を開いて名前を呼んだんだけども、思いがけずファウストが嬉しそうに声を被せてきたので、言葉の続きはメープルシロップを被った粉砂糖みたいに、しゅわっと溶けた。
本当に感嘆符とか、なんなら星とか花びらとか八分以上の音符とか、もっと夢を見て笑われる覚悟をするのなら、あったかい色のハートマークとか。そういうのがいっぱい、飛んでそうな声で、俺を示すたった二音節をファウストは口にする。口にして、俺の身体をそのあったかい身体で抱き締める。
まっしろいベッドにごろごろ転がって、なんの憂いもなく真っ昼間からシーツをぐちゃぐちゃに乱した。ぎゅーっと抱き返して、顔が見たくてぱっと離す。甘い紫色も、俺のことをばっちり見つめていた。浅いソーダ色の日差しが、ファウストの夜明け直前の木立色みたいな髪の毛と、同じ色の睫毛とを、優しい雨の日みたいにきらきらさせていた。
「ネロ」
もう一度ファウストは、俺の名前を呼んだ。
その声も、その瞳も、甘いことには間違いない。けれどもそれは、その実いろんな雑味の絡まり合った、ある部分ではとうに煮詰まりすぎて、ある部分ではまるで煮えきっていない、途方に暮れるほど複雑な構造した甘味だったのだ。
ファウストはそういうふうに、ごちゃごちゃしたものをどうしようもないのでごちゃごちゃさせたまんま、今、俺を愛した。複雑な構造はたった一言の言葉になんてならないから、だから、ファウストはたぶん、ただ、俺の名前を呼んだ。二度もただ呼んでおいて、そうしてそれっきりにした。
それは本当は嬉しいことだ。すごく。めんどくさい愛し方をされているけれど、愛されている俺自身がとてつもなくめんどくさい男なので、寧ろ肌には合ってる。それは間違いない。それなのに。
「……ファウスト」
……彼の方がそんなふうにするから、俺もなにも言えなくなってしまった。しゅわっと、サイダーが砂に零れたみたい。今度は、彼の声に掻き消された言葉は粉砂糖みたいには溶けきらず、俺の食道の奥の方に凝りながら沈んでいった。
ファウストは、複雑なまま俺を愛している所為で、俺の名前のほかには言葉をくれないでいる。その彼に、同じように複雑なまま恋している俺が、含みを持たせて名前を呼ぶのなんかとは比べ物にならないほど単純な一言を贈ってしまうというのは、彼を傷つけることな気がした。
無理矢理飲み下そうとして、代わりに吐いた音は、愛しい人を呼ぶにしてはぎこちなくなりすぎてしまっていた。
「……ねろ……?」
だから、ファウストに首を傾げさせてしまう。彼らしくなく不安げに竦んだ声が、さっきの二度とはまた別の響きを持って、俺の心をそっと叩きにやって来る。
閉じた扉の前で立ち往生してるみたいな目。そんな目をほかでもないファウストがしていることが、俺は不意におかしくって仕方がなくなった。そんな目を向けられて、平生のように鬱陶しがるどころか、そんな鍵壊してきてほしい、寧ろこっちから飛び込みたい、あんたの鍵も全部壊して、俺とファウストの境目なんかぐちゃぐちゃにしてどろけてしまいたいみたいなそんな、実行しようもんなら絶対三十分後には地の底突き破って後悔してること請け合いの衝動を、抱いたりしてる俺自身のことも。おかしくっておかしくって。
「なあ、ファウスト」
「……うん?」
俺がちょっとだけ笑ったら、ファウストはゆっくりと、瞬きした。俺の目を見つめたまんま、ゆうっくりと。その目にも声にも、まだ不安がたっぷり揺れていたけれど、猫の至上の愛情表現みたいな行動を向けられて、俺はなんとなく、これは案外怖がらなくてもいいんじゃないかと、そう思ったんだ。
「好きだよ」
口にした。
言葉に押し込めてしまえば、見た目はすごく単純な。俺の中のファウストという存在、その構成要素としては、その実かなり基本的な。
そんな感情を。
「好きだ、ファウスト。愛してるって言いたいくらい、俺、あんたのことが大好きだよ」
真正面からぶつけると、ファウストが息を詰めて、口籠もる。
甘い紫色の瞳が、俺の見つめる先で、どろどろ溶け出した。
「……僕も、……す、きだ」
確かにファウストの唇で紡がれた。その言葉を聞いて、俺はいっそ拍子抜けしてしまった。すこんと、なにか、箍だか、杭みたいなものが、胸の中から抜け去ったみたいに、信じられないくらい心が軽くなっていた。
なんだ。よかった。彼のあそこまでの複雑さだって、こんな単純な言葉になるんだったんだ。俺がぐちゃぐちゃの想いを抱えたまんま、それでもただただファウストを好きだとも思えるみたいに。純粋じゃないけど単純な、純真じゃないけど素朴な、ひたすらな、ただただ、あんたを好きだっていうこと。これは、伝えてもあんたを傷つけはしなかったし、それどころか、あんたの方でも、俺にそうしたがってくれてたんだね。
「ネロ、きみが大好きだ」
そんなふうにファウストがくれたから、俺もどうしても返したくなって、また「好き」と言った。
そうしたら俺の話を聞いているのかいないのか、ファウストもすかさずまた「好き、好きだよ」と言ってくれる。そんなに貰ったらまた釣り合いが取れなくなるだろ。だから俺はもう一回「好き、ファウスト、愛してる」って。そうしたらファウストは「僕も。愛してるよ、ネロ、ネロ」……。
どうしよう。もうまるで堰を切ったように、単純な言葉が溢れて止まらなくなってしまう。
どれだけ言っても収まらなくて、足りることもなくて、言葉の合間に、ちゅっちゅっと吸いつくようにキスを繰り返した。弾みで、溶け出していたものが目の縁から零れ落ちる。二人分。ぐちゃぐちゃに凝った煩雑な想いに押し出されて、今、シーツに染みを作ったそれは、無色透明で塩っからい、ごくごく単純なかたちをしていた。
Take it easy
