ネロファウ

立てて、波風

 愛してなんかない。
 だって、ただの恋だ。

 距離感に甘えているだけ。居心地の悪くない場所を、手放したくないだけ。
 彼自身に捧げたくはない。俺自身に踏み込まれたくはない。
 どうなってもいいと、思ってるわけじゃない。二人でどうにかなりたいとも。
 面倒なことになってしまってもいいなんて殊勝なことを思えないので。
 やっぱり、俺はただ恋をしてるだけだ。

「っ……どうしたの」
 俺は、なんとか平静を取り繕って声をかけた。
 自分の部屋の中から異常な音が聞こえたのだ。ぎょっとして、廊下側のドアノブを壊す勢いで引き開けた。中にいた筈のファウストを、少し探してしまった。彼は床にへたり込んでいた。硬くて冷たいだろうタイル張りの上に、砕けた食器と、食べ止しのつまみが散乱していた。
「……」
 ファウストが癇癪を起こしただなんてとても思えなかった。鼓動が変なふうに跳ねている。茫然と虚空を見つめている彼に自分の声が届くのか、不安になったのは声をかけてからだ。永く思える息苦しい間があった後、彼は、俺の方を見た。
「……ネロ」
 俺を呼んで、床の惨状に目を遣って、それから、
「……ごめん」
 そう言った声があまりにも掠れて引き攣れていたから、俺の心音は愈々鼓膜を殴りつけ始めた。よく見ると、ファウストの左手には酒瓶が握られていた。割れてはいないようだが、栓は開けたままなので、残っていた中身が床に流れ出している。その水溜まりはファウストの、服も脚も濡らしていた。
「――、ファウスト」
「ごめん」
 弾かれたように、立ち竦んでいた身体が動く。名前を呼びながら駆け寄ったら、ファウストはまた俺に謝った。なにを。思わず訊くと、ファウストは俺の腕の中で、なぜだか居心地がよくなさそうに身体を強張らせたまま、呟いた。
「浮かれたんだ。ネロが、あんまりにも、僕のことを好きって言ってくれたから。僕がいくら、好きって言っても、満更でもなさそうにしてくれたから。僕は、嬉しくなってしまって……浮かれてしまっていて、片付けをしてきみを待っていようと思ったら、転けた」
「……転けたの」
「転けた……」
 俺はその答えにある意味安心して、ほっとしたら少しだけ、本当に冷静になれた。
 怪我はないかと、漸く真っ当なことを訊けた。ファウストは硬い表情で首を振った。
「それより、きみの料理と食器――」
「そんなのいいよ。俺にはファウストが大事だよ。転けたとき、どこぶつけた? 皿の破片、踏んでないだろうな」
 踏んでなかったとしても今から踏むかもしれんので、呪文を唱えて、散らばったそれらをささっと纏めてしまう。ファウストとの晩酌に使うくらいだから、勿論それなりに気に入った品ではあったけども、当然ファウストより優先する物なんかじゃない。寧ろ、ファウストが俺との時間に〝浮かれて〟くれた所為で割ってしまったと言うのなら、この皿に纏わる思い出は、案外幸せな幕引きをしたようにも思えた。
「た、……たぶん。平気……」
「たぶんじゃだめ。じゃあ先ず、手は? 瓶は割れてねえの」
「……テーブルにぶつかったとき、弾みで倒れたから、慌てて受け止めたんだ。……けどもう、中身は殆ど零れてしまった」
「だあから、酒の心配をしてんじゃないって。分かんねえひとだな」
 思わず悪態を吐きながら、確かに罅も入っていない瓶を取り上げる。それは傍に置いておいて、所在なさげに揺れた手をそっと掴んで、検めた。冗談じゃなく、白魚のようなという形容がしっくりくる指だ。
 少し酒に濡れていたけれど、両手とも怪我はないようだった。ちょうど首に掛けていたタオルで拭ってやって、解放する。
「はい。じゃあ、次は足ね。伸ばせる?」
「……ん……」
「よしよし。素直でいい子な」
 茶化す口調で軽く髪を撫でると、ファウストは一瞬、むっとした顔をした。けれどついぞなにも言わず、しゅんっとまた眉尻を下げる。勝手に負い目を感じていて、いつもみたいには強く出られないんだろうな。
 なにかを物理的に壊してしまったということに対する動揺、その胸苦しさは、俺にも分かる。痛いほど。取り返しのつかない、しかもまざまざと目に見える形で突きつけられる失態。紛れもない自分自身の手で、立ててしまった波風。付けてしまった爪痕。もうなかったことにはできないこと。見て見ぬ振りをできないほど、己の非情さや迂闊さやが、厳然としてそこに立ち現れていること。
 そこから目を逸らせないというのは、絶望だ。俺なんかはそれでも無理矢理に目を瞑ってしまったりするけれど、この真面目な人が、器用にそんなことできるのかは分からなかった。現に、そうできずに素直に絶望してしまったからこそ、ファウストはあんな顔をしていたのじゃないかと、俺は思う。風呂に入ってくるから適当にしててと、俺が部屋を出たほんの数十分前まで、あんなにふわふわ、くすくす、楽しそうに笑ってた筈のこのひとは。
 俺の料理をだめにして、俺の持ち物を割り散らかしたのを、俺に悪いと思ったからではなく。〝自分が壊した〟という事実にこそ、なにより絶望したがために、ファウストの視線は悄然と空を彷徨っていたんじゃないか。
「……切ってはいないみたいだな。よかった」
 サンダルが脱げて放り出されていた素足を隅々まで確かめて、俺は頷いた。続いて、ネグリジェの裾を、声をかけてからそっとたくし上げて、膝までの肌にも異常がないことを確認する。それからやっと、転がっていたサンダルを拾ってきて、彼の肌や服にしたのと同じように魔法を使った。水気を飛ばし、肉眼では見えない破片まで念入りに取り去ってから、綺麗な足に履かせてやる。丁寧にしたくて、でもちょっと気恥ずかしくもあったのでわざとらしく恭しい手つきを演じたら、「ありがとう自分で履ける」とむくれた声で返された。
 おどけた笑いを鳴らしながら顔を上げて、――俺は鼻白んだ。
 ファウストが全然、元気になってなんかいなかったからだ。機嫌を直した素振りを取り繕ってくれる様子すら、見せていなかった。
 内心ひどく狼狽えながら、俺は薄らした笑顔を張りつけて、首を傾げて見せる。面倒くさいわけでは、絶対になかった。泣かれるのが面倒くさい、目の前で落ち込まれるのが面倒くさい、縋られるのが、問われるのが、応答を求められることが、面倒くさい、わけじゃ、ない。
 ただ、俺は動揺していた。本当はそれら全部まだ面倒くさいんだ。面倒くさい――怖い。それなのに、その怖いものを躱しもせずに受け止めようとするなんて、したことがない。したことがないから、不安で、癖で逃げ出したくて、けど紛れもない俺自身の意思でもって、逃げ出そうとする自分の足を押さえつけていることが、とんでもないストレスだった。
 また耳許で心臓がどくどく打つ。下ろした髪が嫌な汗で張りつく。なにを言われるかを、俺は分かっている気がした。
「迷惑になりたくなかった」
 ファウストは、言った。
 あまりにも血の気の失せた顔が、ちゃんと生きた声で喋っていることが、いっそ不思議に思えるような光景だった。痛ましかった。抱き締めたりでもすればその頬に少しは赤みが差すかもしれなくて、けど俺は、自分の方こそ死んでしまったように、なにもできずに黙っていた。
「きみの迷惑になるような。きみの心が湖だとして、その水面にわざわざ石を投げるような――波を立てるような、ごみを残すような。きみが世界に触れるために、きみに僕が触れるために、通さなきゃならない媒体を……きみの料理を、壊して無下にして無効化するような。それでも僕の身体の方を気遣うことを、半ば強制してしまうような。
 そんなやつにはなりたくなかった。もう、なってしまった。ごめん。ごめん、ネロ。本当に――」
「やめろ」
 自分の口からなにが出たのか、咄嗟に分からなかった。
 すごく黒くて、重たくて荒んでいて、なのに執着があって、これは俺の声なんだろうか。気まずくて、一度言葉を切る。幸いなことにファウストも、驚いたように口を噤んでいたから、俺には努めて深呼吸をする時間があった。
「……いいんだよ」
 意を決して絞り出した声は、殆どやつれたように低く漂って、流れた。ファウストが目を上げる。自分がほとほと嫌になって吐き出しかけた溜息が、その飴玉みたいなパープルに見つめられるだけで、温かく霧散する。あ、と俺は思った。言いたい。伝えたい。
 ファウストに言いたいことがある。ずっと思ってて、腹の底にしまい込んで、一生伝えないと決めてたことがある。けど、どうせ、長くはない時間をそれでも一緒に過ごすうちに、元々碌でもなかった我慢がゆるんで、ついつい小出しにしてきてしまったものだ。どうせなら、そう。もう、伝えてもいいんじゃないのかな。まるごと渡してしまいたい。ファウストに。聞いてほしい。聞いて。
「――迷惑でいいよ。あんたから被る迷惑なら、もう、殆ど迷惑じゃない。
 迷惑なんだけどさ、どれだけ迷惑でも、不思議とあんまり煩わしいとは思えなくなってきちまったくらいに、俺、もう、あんたのことが大好きなんだよ」
 ファウスト、と、念を押すように名前を添えた。ほかの誰でもなくって、虚空に放り投げる感傷でもなくって、確かに、あんたに届けたいことだから。
 抱き締めた腕の中から、は、と静かな息が漏れた。それが俺を詰ろうとした声なのか、それとも笑い声なのか、俺には分からなかった。
 腕の中の身体がもぞもぞ身動ぐので、突き飛ばされるのかもと思って俺は緊張した。力任せに抱き込んで閉じ籠めてしまいたい衝動を必死で殺す。ぎくしゃくと、力をゆるめると、にゅうっと二本の腕が這い出てきた。袖が捲れて見えた肌に、一瞬、目を奪われる。肌の白い滑らかさ、筋肉の動き、骨の浮き出た陰影にぞくぞくして、ああ今夜この人を抱けたらいいのに、とものすごく場違いなことを本気で思った。
「……ネロ」
 呼ばれて、我に返る。淫靡な想像は一瞬のことで、直後、自由を得た筈の両腕に思いがけず抱き締められたために、俺は放心していたのだった。
 俺の首に両腕を回して、ファウストは俺を抱き返してくれている。表情は見えなかったけれど、贈られる抱擁は迷いのない強さで、それなのにやわらかくて、あったかくて、とくんとくんと擽ったく跳ねてる心音は、俺のものかもしれないし、ファウストのかもしれなかった。
「――僕はずっと思ってた。おまえの仕掛けてくる面倒なら、本当はもう、殆ど面倒なんかじゃなくなってるのにって。けど、言ったらおまえの迷惑になると思った。おまえは迷惑を嫌うと思った。嫌えば、おまえはもう僕の傍にはいなくなるだろうと思って、そうなるのが僕は嫌だったから、ずっと言わなかった、ずっと」
 なんだか息がつらくなってきて、俺はぐすんと鼻を啜った。それでも心許ないので、子どもが親にするみたいにネグリジェの背中を握り締めて縋ってしまったのだけど、ファウストはそうするのが当たり前の返事だとでも言うみたいに、俺の頭をぎゅっと抱き直してくれた。
「まさかおまえがそんなこと言ってくれるなんて。僕だけじゃなかったなんて。……ゆめみたいだ……夢みたい。こんな幸せな夢、僕は、生まれて初めて見たよ」
 夢だなんて。そんなふうに言われてしまうと途端に不安になってきて、俺は柔らかい髪を掻き分けて見つけた、彼の顎骨の端っこ辺りに噛みついた。痛いかと訊くと、擽ったいと笑われる。そこで俺は薄々正気に戻った。痛いって言わせるつもりだったのか。彼に。俺が。自分にげんなりしてしまって、同じ場所になるたけ優しいキスをすることで誤魔化しを試みる。
「ふふ、……ちっとも痛くないから、やっぱり、夢なんかじゃないな」
 ファウストが、悪戯な内緒話みたいに言うから、俺は測りかねて瞬いた。その拍子になにかが頬を伝い落ちた気がするけれど、それは深追いしないことにする。そっと彼の顔を覗き込んだら、咄嗟には表情を捉えられないくらい、視界がぼやけている気もしたけど、それもきっと気の所為だ。
「……なんで?」
「だって、ほんとのネロは、僕に痛いことなんか絶対にしないからね」
 ファウストの甘ったるい紫色が、俺の目を捕らえて離さないまま、微笑む。そうだろ、って自信満々に訊かれて、俺は、そうしたいとはずっと思ってる、となんとか答えた。声は上擦ってなんかない。引き攣れてもいないし、俺にしては珍しく、後ろめたいことなんてなにもない、本当の本音だった。
 それだというのに一体なにがおかしいのか、ファウストは、優しげな微笑みから、どんどん相好を崩していって、しまいにはくすくす声を上げて笑い出した。
「ああ、ネロ、泣いてるきみはかわいいな。僕を抱いてるときにも、よく泣くよね。かわいい。ああ、本当にかわいい! こんなふうに泣いてくれるきみを、見ていられるのが、今の僕のいちばんの幸せだ」
 挙げ句の果てに突拍子もないことを聞かされて、俺は愈々どうすればいいのか分からなくなる。泣いてないし、可愛いとかない。あるわけないけど、ファウストが本当に、言葉に違わず幸せそうに笑っているから、俺は動転した頭で、稚拙な言葉を捻り出すのが精一杯だった。
「う、……っるせえ……、煽ってんのか」
「煽ってるよ」
 思いがけない返りに、涙も止まった。いや、泣いてないけど。元々流してない涙も止まるくらいに、俺はびっくりしたんだ。
 虚勢を張った揚げ足取りのつもりだった。だから、彼の方も冗談で返したのかもしれないし、あるいはこちらの含めた意地悪な意図が伝わらなかったのかも。ぐるぐると考える間に呼吸すら忘れた、俺の顔に、ファウストの清廉な指が、優しく触れた。
「今夜、きみに抱かれたい。離れたくないし、帰りたくない」
 俺はファウストの身体を抱き上げた。羽根のように軽くてまたびっくりした。彼だけじゃない、俺自身の身体さえも。理由は分かってる。これが夢だからじゃない。夢みたいな幸せに、俺が浮かれているからだ。
「……わ!」
 ベッドにぼふんと倒れ込むと、ファウストが小さく声を上げる。俺は彼の身体に伸しかかったまま、暫くはじっと穏やかに抱き締めて反応を窺うつもりだったけれど、ファウストは、さほど間を置かずにくすくすと笑い出した。……悲鳴じゃなくて、よかった。こっそりと息を吐く。俺は本当に、この人との時間には少しの痛いことも、怖いことも、できれば悲しいことも淋しいことも、欲しくはないから。
「……あんたのこと、抱かせてほしい。今日は離さないし、帰さない。……いい?」
 少しの痛いことも、怖いことも押しつけたくないから、やっぱり最後の最後に引いて見せてしまう。
 だめ、って返ってきたらどうしよう。いや、だめならだめって教えてもらうために訊いたんだから、それでいいんだけど。でもやっぱりちょっと、淋しい。抱かれたいって言ってくれたの、冗談だったのかなとか、揶揄われたのかなとか、思っちゃうかも、な。やだな。
 そんなふうに答えを聞く前から悶々としていたのが、顔に出てたんだろうか。ふと気が付くと、ファウストが、自分を押し倒してる男のことをじっと見上げて、面白そうに瞬きしていた。
「……いいよ。それとも、もう一度言ってあげようか? 怖がりな可愛いひと。僕はきみに抱いてほしいんだって」
 優しい答えにほっとして、思わず、額をくっつけて前髪を擦り寄せた。変なふうに甘える俺の頬を、ファウストが、茶化すみたいに両手で擽る。
「ただし、うんと優しくしてほしいな……いつもみたいに」
「……いつもどおりでいいの?」
「うん。ネロはいつも、優しくしてくれるから。僕はきみに痛くされたことも、怖いことされたことも、今までにたったの一度だって、ないよ」
「……よかった」
 よかった、と俺はもう一度呟いた。ファウストに聞かせるためじゃない。ほんとに、俺自身が心の底から、そう思ったからだ。よかった。俺は、あんたに、ちゃんと優しくできてたんだ。
「……あの、な、ファウスト」
「うん?」
「俺、これだけは、言っとかなくちゃなんだけど」
「……うん」
 ふと、大事なことを思い出したので、俺はそう前置きして、ファウストの瞳を見つめた。すっごく至近距離。紫色が、ほんの少し不安げに揺れる。大丈夫。そういう意味を込めて、髪をそっと撫でたら、ファウストは俺を信じてくれたみたいに、ゆるやかに眉を開いた。
「――俺は、これからもファウストのこと、うんと優しく抱くよ。今まで痛いことも、怖いことも、できるかぎりしないように気を付けてきたのは、あんたの〝面倒〟になっちまうからじゃない。俺の〝迷惑〟になるからでもない。
 ……ファウストのこと、大切だったから。大切なうえに、大好きだったから。あんたに本当に、痛い思いも苦しい思いも怖い思いも、してほしくなかったんだよ。ただ、それだけ」
 ファウストはふうっと、目を見開いた。あんな話をした後で、抱かせてって言うからには、やっぱりこれは、ちゃんと言葉にしとかなくちゃだめだろう。伝わってるだろうか。
 波を立てたくないからじゃない。爪痕を残したくないからじゃない。お互いがのっぴきならない存在になってしまうのが面倒くさいから、だからあんたを傷つけなかったなんて、そんなわけない。
「……本当言うと、あんたが俺の傍で笑っててくれたらいちばん嬉しいからって、そんな下心もまあ……なかったわけじゃないんだけど。でも……とにかく、そういうわけだから。お互いに面倒でもいい、迷惑でもいいって了解し合った今となっても、じゃあ、だからあんたを傷つけたい、とは思わない。
 これからもファウストのことずっと、俺にできるかぎりのやり方で、大切にするよ。あんたに面倒かけても許されたいっていうのは、あんたを痛がらせたり、怖がらせたりしたいっていうのとは、絶対に違うことだから」
 考え考え、どうにも上手くはない言葉になってしまったけれど。
 伝えなきゃならないことは、ひととおり伝えきった筈だ。……ほんとに伝わってるんだろうか? なんだかファウストの目がぼんやりしているというか、そこはかとなく泳いでいるというか、どことなくかっちり嵌まらない感じがして、やや不安になる。上の空、っていうんだろうか。珍しく、俺の話、ちゃんと聞いてくれてないような。なにか別のこと考えてるみたい……え、待って、淋しいよ。どうして。
「……苛めてごめん」
「…………へ?」
 俺が冷や汗と変な動悸とを持て余し始めたとき、ファウストが口を開いた。視線はやっぱり、露骨に俺から逃げていて、口調は、そうだな、うっかり紅茶に砂糖を入れすぎてしまったみたいな、絶妙に遣る瀬ない感じだ。そんな声で今の場面で、一体なにを謝られることがあると言うのか。
 相当どぎまぎしていた俺にようやっと目線をくれて、彼が、気まずそうに呟くことには。
「……僕は、きみの泣き顔を見るのがいちばん幸せだって言ってしまった」
 ばつの悪そうな顔をぽかんと見つめて、俺はたっぷり数十秒、考え込む。
 耐えきれなくなったファウストがもぞっとぎこちなく身動ぎした頃、俺は漸く合点がいって、思わず声を上げて笑い転げてしまった。
 笑いすぎて、久し振りに涙まで出てくる。いや、本当に久し振りなんだけど。
 ぎゅーっと抱き締めたまま転がったので、仰向けになった俺の身体の上に、ファウストがごろんと乗り上げる格好になった。ああ、もう。おまえが俺のこと苛めようとなんてしてないことくらい、知ってるよ。俺が痛くて泣くときは、あんた、俺以上につらそうな顔するもんな。
 それなのにあんなに、本気で申し訳なさそうに唇を歪めていた彼の真面目さが、本当におかしくって、ああもうこれだから大好きだなって思うと、いつまでも笑いが止まらなくなってしまう。
 だめだ。今なんか身体のどこを触り合ったって、ただただ擽ったくて大笑いしそうで、セックスどころじゃなくなりそうだった。それは流石に、真面目な先生を拗ねさせてしまう気がする。どうだろうか。相変わらず〝なぜか〟ぼやけている目をぱしぱし瞬きながら、彼の表情を窺う。
 ファウストはベッドに両肘を突いて、ほんの少しだけ、俺から身体を離した。そのくらいの位置が、あんたの顔がよく見える。それが嬉しくて、やっぱり俺は笑ってしまった。またぼやけていく視界の中で、どことなく憮然とした面持ちのファウストは、俺の顔をまじまじと見下ろしていた。
 と、気まずさを残していたその表情が、ふやんと綻ぶ。
 ……ほら、やっぱりあんただって、俺に嫌なことも、つらいことも、させる気なんかないじゃないか。
「かわいい」
 囁かれた声はふわふわのスフレケーキみたいで、俺がそれを味わいきる前に、今度は唇に直接、ホイップクリームみたいな甘い、甘いキスがたっぷり降ってきた。

 愛してなんかない。
 ただの恋でいい。

 この恋が、一体どこまで行けるのか。
 俺が確かめるのは、それだけでいい。
 あんたと恋をしながら知る景色は、俺にちっとも、出会ったことを後悔なんてさせてこないから。あんたといると、今までずっと怖かったものが、ほんの少しだけ、怖くなくなっていくような気がしてるから。
 だから俺は、ファウスト、あんたともう少しだけ、切なくてもいい、愛じゃなくていい、とびきり柔らかい、恋をしていたい。

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