ネロファウ

七夕、空の下

「……今年は、逢えないな」
 そう言った声が一人の部屋にぽつんと落ちる。ネロは片手に掲げたグラスをからんと傾けた。
 結露がぽたりと、テーブルを濡らす。

『相変わらずロマンチストだな』
 受話口から聞こえるファウストの声が、くつくつと震えていたのはたぶん気の所為じゃない。ネロは氷をからから揺らしながらむくれた。
「話の流れでそう言っただけじゃん」
『毎年きみから振ってくる話題だったろ』
 ああ面白い、と呟いてファウストが声を抑えずに笑い出す。笑われるネロは面白くもなんともない。こいつはこんな無神経なやつだったかしらん。
『……けど、雨が降ったのは初めてだな。きみがそんな悄気た声を出すのは、初めて聞いたもの』
 ファウストの声が穏やかになったので、そうそう、こいつの笑みっていうと、こういうのなんだよ、とネロはほっとして胸中で頷いた。「悄気てたかな」と聞いてみると、『うん』と返った。
『ネロは優しいから、ほんとうに付け込まれそう……心配なんかしてやらなくたって、雨が降るのはこの地上での話だ。雲の上ではなんにも変わらないよ』
 なんにも変わらずに、恋人たちは逢うよと。
 ファウストは穏やかに言った。絵本の物語に心を痛める子どもにそうしてやるように、ネロに優しく言って聞かせた。それはそうと、付け込まれそうってなんだ。
「……そっか、言われてみりゃ、そうかも。ファウストの考え方、偶に身も蓋もなかったりもするけど、それでも優しくて、俺、やっぱり好きだ」
『それはどうも』
 電話の向こうでもからんと音がして、語尾に食い気味の沈黙が被さった。ファウストも晩酌の最中なんだろう。こく、と鳴る喉仏の動きを思い出して、ネロはマイクに入らないように唾を飲み込んだ。それはこの世でただ一人ネロだけにとって、とても艶やかに見える光景なのだ。
 この世でたった一人、ネロにだけ、そんなふうに見ることを許された景色。
『僕も、あらゆる輩に付け込まれそうなくらい優しいネロのこと、大好きだよ。苦労が絶えなさそうだなとは傍目に思うが』
「引かれてんの? 俺」
『ところで、ネロ』
「なんか今日はにべないな……なに?」
 出会ってから既に季節が何巡かして、それでもありがたいことにまだ交流が続いているこの相手が、多少自分の前で気を抜いてくれるようになったのだと思えば、それは喜ばしいことなのかもしれないけれど。雑に扱われることには耐えられないという自分の特性を知っているから、ネロは少々ひやっとしてしまう。
 けれどまあ、そう。この人相手には、ファウストにだけは、そんな不安はやっぱり杞憂なんだった。
『――今から会えない、かな』
 なんでもないことのように言おうとして、気恥ずかしくて失敗して、けれどぶっきらぼうな態度なんてそれこそ取りきれなくて、ネロ相手に気遣いと優しさと不安と期待とを隠しきれずごにょごにょ弱っちい声でそう言うしかなくなってしまった、ファウスト。
 かわいいファウスト。かわいい、かわいい、ネロのたった一人の大切なひと。
「……珍しーね」
『そんなことはないだろ』
「うん、そんなことはないけど……普段ならお互い全然珍しくねえけど、でも、今日、あんたがそう言ってくれるのは……」
 指摘するうちにネロの方も照れてきてしまって、語尾がちょっとだけもごもごなる。ファウストが小さく、息を吐いたのが聞こえた。
『……雲の上の虚構の二人にだけ、花を持たせてやるのなんか、癪だろ』
 ふてくされた声が、どうも変に真面目なようだったから、ネロは声を漏らして笑ってしまった。
 そうそう、こういうのなんだ、ファウストと話すのって、だから好きなんだ、俺。
 マイクに乗った笑い声を聞き咎めて、ファウストが怒る。だって今ここで生きているのは僕らの方なんだから、と。うん。だから、雲の上でばっかりいい思いさせて、地上の二人は雨で離れ離れじゃあ気に食わねえよって、そういうことだろ。ちゃんと分かってるし、俺だってそれには同意なんだ。
「ごめん、ばかにして笑ったわけじゃないよ」
『……そう』
「ほんとだってば。あんたのこと、やっぱ俺すごく好きだって思ったら、なんか嬉しくなってさ。……あと、会いたい」
 流れに任せて舌に乗せたけれど、言い終わった瞬間どっどっと鼓動が逸り始めた。本当に俺なんかがファウストのこと、全然笑えないったら。
 改めて告白みたいな伝え方をすると、こんなにも緊張してしまう。
『……そう』
 さっきと同じような言葉を使ったファウストは、けれどもさっきとはまるで違う声でネロの告白に答えた。
 ふやっと綻んだ空気が、電話越しに伝わってきて、じわじわとネロの耳にまで染み込んでくるみたい。
 ――こいびと、って、名前を付けたことはない。
 けれど大切な、この地上で唯一の〝好き〟の形を捧げたひと。ほかのどれとも違う〝好き〟を、めいっぱいあなたの形に育て上げたいんだって、お互いに確かめ合った、それを求め合った、たった一人の相手だから。
「……じゃ、いつもの場所で」
『うん。……ネロ』
「ん?」
 だから、今、あなたに。
『会いたいな』
「……うん、会いたい。ファウスト。飛んで行くよ、今すぐ」

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