ネロファウ

珍しいタイプ

 酔っていた。
 そのとき俺もカインも酔っていて、たぶんシノは素面でもなにも変わらなかったと思う。
「ファウストは、ネロのどういうところに惚れたんだ? やっぱりあれかな、飯が美味しいところかな」
 上機嫌で人の恋愛事情に突っ込んでいくカインに、
「ネロの料理は俺だって一生食べたいよ。あれだよ、ファウスト先生もネロも優しくて、繊細だから、波長が合ったんだ。カインみたいにがさつだと分からないんだろうけど」
 俺は酔ったときの悪い癖が出て、あらゆる意味でめちゃくちゃな茶々を入れてしまったのだ。
 シノはカインと飲み比べていたから酔っていないことはなかっただろうけれど、存外静かにしていた。今思うと、カインの振った話題にちょっと興味があって、先生が答えるのをにやにやと待ってたのかもしれない。
 俺の暴言にカインは笑った。――笑ったのは、カインだけだった。
 意外に笑い上戸な先生の、声は聞こえなかった。怒らせたのかもしれない、と酔った頭が一部だけ冷静になる。叱られるのはカインか、俺か、俺は戦々恐々と首を竦めながら先生の方を窺った。
「……ら」
 ――え?
 俺たちから顔を背けてしまっている先生が、何事か言った。聞き取れなかったのは俺だけではなかったようで、間抜けな感じで聞き返す声が三つ、重なっていた。
「……だって、かっこいいから……」
 ネロは、と付け足す。
 俯きがちに振り向いて今度ははっきりと俺たちに聞こえるように言ってくれた先生の、その言葉が、先のばかげた質問への回答だということを俺は咄嗟に気付けなかった。
「……かっこいいか? ネロ」
「かっこいいだろう……!」
 それまでおとなしくしていたシノが素朴な口調で訊ねるから、俺はもう少しで胸座を掴んで黙らせるところだった。被さるように放たれた先生の声に、気を取られて、未遂に終わったけれど。
 俺はファウスト先生を振り返った。そして今度こそ、綺麗に酔いが覚めた。
「……その、……ほら、僕の手を握ってくれる、あの手とか……甘いことを囁いてくるときの声だとか、思わせ振りな小さな笑い方だとか、そういうのが……なんだか、すごく……どきどきする……」
 伏し目がちに、ふんわりと頬を染めて語る、先生。
 流石に酔っておられると、口調にいつもの凛とした覇気はないけれど、元の声質と発声が優れているために、一つ一つの言葉がしっかりと俺たちの耳に届いた。
 ……この人から教わったことの中で、知らない方がよかったと思った知識なんて、これが初めてだった。

 俺は嫌だって言った。
 カインと、シノと、二人に引っ張ってこられた俺と。そしてもう一人。
 今日の飲みに付き合ってもらうのは、先生じゃなくて。
「ネロは、ファウストのどんなところに惚れたんだ?」
 本当にごめん、ネロ。
 他人の人間関係を興味本位で突っつき回すものじゃないって止めたのに、先日のファウスト先生の件で碌でもない味を占めてしまったらしい二人は、「今度はネロの気持ちを聞いてみよう」なんて言ってこの飲みの席を設定してしまったのだ。
 俺は酔うに酔えず、飲むに飲めなくて、ネロの差し入れてくれたおつまみをひたすらつつきながら戦々恐々としていた。とはいってもあまり態度に出すとネロが心配してしまうから、場を楽しんでいる素振りだけは、どうにか取り繕っていたのだけれど。
 よりにもよってネロを騙すようなことをするなんて、本当に胃がきりきりしてきてしまう。せっかく一生食べていたいほどの料理を目の前にしているのに、勿体ないにもほどがあった。
「ネロは最初の頃、人との関わりをあまり好んでいない感じだったから……なんだかんだ面倒見がいいけど嫌なことは聞いてこない、ファウストの包容力に惹かれたとか?」
「それはあるかもな。ネロ、結構甘えただからな。ファウストに限らず、最近じゃオレたちにもそこそこ素直に甘えてくるようになったし」
「シノ……!」
 今日は完全に素面である俺は、慌ててシノを窘めた。
 ネロになにか胸に秘めている思いがあるとして、彼に限って、酔っ払った勢いでそれを零すなんてことはほぼあり得ないだろうと俺は思っている。挑発なんてしたら、語るに落ちてくれるどころか、きっと普通にネロの気分を害してしまうだけだ。
 心底焦る俺にカインは笑って、シノは口を尖らせて、――そしてネロが、笑った。
「まあ、そういうのも……ないことはないけどなあ……」
 ネロの苦笑は穏やかで、俺が怖れていたよりも、張り詰めた空気を纏ってはいなかった。肩の力が抜けたような、静かな優しい顔だった。
 硬そうな、けれど無骨には見えない指先が、無雑作にブルーシルバーの髪を掻き上げて、耳に掛ける。そういうなんでもないようでいて、その実、細部まで垢抜けて整った仕草を〝かっこいい〟と思う感覚なら、ちょっと、俺にも分かる気がする。
 ネロはグラスを気怠げに呷って、ゆるく首を振りながら、顔を背けた。
「……ら、さ」
 ――え?
 俺たちの、三人の声が重なった。
 伏し目がちに呟かれたネロの声が、よく聞き取れなくて、俺とシノとカインとで、ぽかんと聞き返したのだ。
「――だってあの人、すごく可愛い、からさ」
 ……そう言ったネロの言葉が、先の本当にばかげた質問への回答だということを、俺は、まさか俄かには信じることができなかった。
 ネロは続けた。お酒の所為なのかそれともなにか別の理由でなのか、頬を薄く染めて、目尻を、口の端を甘くゆるめて。それはきっと、自分の愛おしく思うものを、ほかのなににも憚ることなく、素直に素朴に愛おしんでいる表情なのだった。
「分かりづらいけど、すごい美人だろ、うちの先生って。目、おっきいし。普段むすっとしてるからなかなか気付かねえんだけど、わりとすぐに気い抜いて表情くるくる変えるからさ、うっかり見開いて見せたときの目なんか、零れそうで……。あとあの、なに喋ってても、先生、って感じの、固いけどやわっこい声とか。服を着てるときの、袖から覗いてる、手首から肘にかけてのラインとか。……俺よりちょっと身体がちっちゃいところとか。そういうの、が、……なんか、ぜんぶ……どきどき、するんだ」
 シノがひゅうっと口笛を吹く。
 カインが笑い出しそうに息を吸い込んだのが分かる。頼むからそのまま吐き出さないで。カインのことだからそれは祝福の笑みだろうけれど、それでも、もうこれ以上ネロに喋らせないであげてほしかった。なにせ、彼は今、確実に酔っ払っているのだから。
 俺は二人の所業を窘めることもできずに、ただ、ふーっと深く息を吐き出した。
 ……ネロから振る舞われたものの中で、こんなに甘ったるくてお腹に溜まるみたいなのは、これが初めてだった。

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