キスがしたい。
キスがしたい。キスがしたい。
ネロは思った。
誰かとじゃない。それはキスじゃない。ネロにとってのキスは、あのひととするそれでしかなかった。あのひとに、自分の唇を受け止めてもらうこと。もしかしたら、あのひとの、くちびると、俺のとをくっつけること。もう少し深くもしたいって、思わないわけではないけれど、必須じゃない。したい、けど、けど不安でもあるから、なにかを壊しそうなら、まだここにいてよかった。
ここにいたい。そう、ここで、ファウストとキスがしたい。
その実現には、先ずファウストを探すことだった。今はどこにいるだろう。部屋にいるかな。一人でいるだろうか。ああ。
もしも誰かといたのなら、その姿を見たらきっと、今の自分が、嫌になる。
そう、ネロはふと思った。きっと、キスをしたいって思っていた自分の思考が、気持ち悪くて醜く見えて仕方がなくなってしまうとそのとき気付いた。
「……なにやってんだか」
空しい部屋に落ちた。自分の声は既に少し、気持ち悪く聞こえた。
一息に、気分が悪くなった。
あんなに浮かれていたのに。浮かれていたからこそ、そこから転落した今の目からは、一瞬前のその自分が醜くて惨めに極まって見えた。
外が晴れているのに開け放していたカーテンが、妙に気味悪く思えて乱暴に引いてしまった。
「……ファウスト、……」
心細かった。好きなひとの名前を呼んでしまった。途端、震えが走った。こんな気持ち悪くて醜い者の声で大好きな名前が呼ばれたのが、怖ろしいほど不快だった。呼びたい。呼ぶのを自分が許さない。きっとあのひとも。こんなの望んじゃいない。欲しくもないだろう。
要らない、だろう。
ネロのことも。
……ネロは瞼を閉じた。涙は零れないのに、嗚咽が口を衝いた。奥歯を噛み締める。醜く呻く。
……ファウストに、愛されたかった。
今、愛してほしかった。
恋をしていた。
誰かにじゃない。そのひとにだから、恋だった。
ファウストにとって、ネロに向かう己の感情は、怖いくらいに新鮮だった。見覚えがないうえに鮮烈だった。
わけがわからないから、恋と呼んだ。ファウストは恋を知らない。ネロへ抱く激情も、間違いなく今までに知らない形をしていた。知らないものだから知らない名で呼ぶことにした。それは順当なことに思えた。
だから、ファウストの恋はたったひとつだけ。
ネロに向けてどうしても抱いてしまうあらゆる情動の機微をぜんぶ、ひっくるめて、それをたったひとつの、恋という名前で、くくった。
失恋っていうのは、だからネロをまるごと失うことだと、思う。
「……ネロ、……」
くちびるが幽かに離れて、その合間に、うっかり呼んでしまったんだ。
目の前のネロは、ぎくりとしたような、それとも失望したような、顔をして、すうと目を逸らしてしまって。
身体がはなれる。
……おもたかったんだと、悟った。
いまさらぜんぶ遅かったけれど。
こんなのネロは望んでいなかったんだ。欲しくもなかったんだ。
要らなかったんだ。
僕のことは。
……ネロの恋は、きっとファウストじゃなかった。そんなの当たり前なのに、ファウストが勝手にネロとの時間を恋と名づけただけだから、ネロの方に恋なんて存在しなくて当然だったのに。
それなのに、愛されたかったと、思ってしまった。
ファウストの方にあるのだって、全然愛なんかじゃなかったくせに。それはただの、恋だったくせに。
もしかしたら素敵な夢みたいに、同じように、きみも僕のことを、きみにとってのたったひとつの恋だと思っていてくれるなんてことがあるのだとしたら、
なんて、
醜悪な幻想にずっと溺れていた。一人で。
ファウストの瞳が悲しそうに揺らいだ、のを見て、思い出した。
――違う。違う。間違った。
俺はまた間違ったんだ、と。
違った。ファウストは俺のこと要らないんじゃない。俺に恋してるんだって、俺に、きみもまた、ひょっとしたらでもいいから、僕のことほんの幽かにでもそういうふうに思ってくれたなら、一生生きていけるくらいに嬉しいんだって、そんなふうに言ってくれたんだった。そうなんだ。ファウストは俺のこと、俺なんかのこと、こんなに、もうとっくに、愛してくれているんだった。
ずっと、ずっと根気よく好きでいてくれて、あんなに言葉を尽くしてくれて、こんなにも求めてくれたのに。俺、は、また勝手に不安になって、どうしても苛まれて、一人で動けなくなって。振り絞った力で必死にこのひとの手を払い退けて、これでいいんだって、なんて、なんてばかなことを。
飽きずにまた繰り返してしまったのか。
「ファウスト、ご、めん、俺、……俺……違うよ、また間違えた。違う。俺、あんたのこと好きなんだ。ずっと好きなんだ。ファウストが言ってくれたこと、俺にしてくれたこと、信じてないわけなんかじゃねえのに……怖く、て、碌に言えたことなかったけど、けど、流石にもうあげるよ。あんたにあげる。ファウスト、愛してる。この言葉も、俺の中のたったひとつの恋も、ファウストにあげる。今あげる、から。だから、……だ、から、……受け取って。手放さないで。俺とずっと、恋してて。大好きなんだ、ファウスト、俺、あんたのことが、どうしても……」
無様に震えた声。惨めで、情けなくて、碌でもない。素敵じゃない。けれど、こんな俺のこと、それでも、ファウストは好きだって言ってくれる。恋してるんだって何度でも示してくれる。信じたい。だってその方が嬉しいからだ。俺の、狂おしいくらいに大好きなひとが、このひとに愛を返してもらえたなら本当に嬉しいのにって死にたいくらいに願う相手が、ひょっとして、そうしてくれるなら、今、世界が終わってしまったとしても、間違いなく最高に幸せになれるほどに、嬉しいから。
だから信じたい。愛したい。ファウストとずっと愛し合っていられたら、俺は嬉しい。俺とずっと愛し合っていることを、あんたが同じように喜んでくれたなら、もっとずっと。
きっと嬉しい。
「俺、ファウストと――」
ネロに愛されたかった。僕の恋を、邪魔なんかじゃないよって言ってほしかった。キスをしていたかった、甘くて、優しい、ネロと僕だけの会話を。
それなのに僕は、何度でも忘れてしまう。ネロが僕を好きでいてくれること。僕が浅ましく狂おしく願っているのなんかよりもずっと激しく、深く、ネロがひたむきな愛情を注ぎ続けてくれていること。ネロが僕なんかを死ぬほど大切に思ってくれること。ネロは、大切なものをつくるのを怖れていること。
だから、僕と一緒にいて、ネロはずっと怯えていること。
そんなことをいくつも忘れて、僕は散々な間違いを繰り返す。ネロの怯えを拒絶と見紛って、ひた隠しにされる重たげな愛を、倦んだ敬遠と勘違って。勝手に傷ついて一人で絶望して、判断を誤ったまま、うっかり僕の方から手を離してしまいそうに、なる。
そうしていつでも思い出す。ほかでもない彼自身の言葉で。誰でもない、僕の恋人が、僕を呼ばってくれる、擦り切れそうに切ない求愛の声で。
僕らは間違いなく愛し合っているんだということ。何度でも、何度でも、ネロの言葉が僕に、すんでのところでそれを思い出させてくれる。
「俺、……ファウストとなら、幸せに、なりた、い」
胸が詰まる。
どうしようもないくらいに怖がりな彼が、こんな言葉を渡してくれることが、一体どれだけ深刻な意味を持つか、どれほどまでに重たい情に動かされてのものなのか、どんなに無闇に僕に恋してくれているからなのか、僕に、ネロがこんなにも愛している僕に、分からないわけがなかったから。
やっとの思いで、頷いて見せる。ぼやけた視界の中で、ネロの慕わしい笑顔が潤んで、溶け出した。
――大切なものをつくるのを怖れていたネロのことも、僕と一緒にいてずっと怯えていたネロのことも、このとき全部、ぜんぶ、過去形になったのだと知った。
恋をしていた。
誰かとじゃない。あなたとだから、恋だった。
ファウストの恋は、ひとつだけ。
ネロの恋もまた、世界でたったひとつだけだ。
不安や恐怖のない日は、これからもきっと、やって来ない。愛するかぎり、不確かで、恋をするかぎり怯え続けるのだろう。だけど、それでも。そうまでしても。
息をしてゆくなら、きみとがいい。