夕食がなんだか少ない気がした。
それで、夜中にネロのところへ行ってみると、案の定、甘く笑って部屋に迎え入れられた。
「ごめんな、腹減った?」
「まあ……。そう仕向けられたからそれなりには」
「悪かったって」
別に僕は怒っているわけではないんだけれど、ネロにはそう見えたのか、弱ったように眉を顰めて謝罪を重ねてくる。少しかわいい。そう思ってしまったから、僕の機嫌の取り方としては、やっぱりネロの仕草は的確なんだった。
「今から盛りつけるからさ、ちょっと待っててよ」
キッチンに立つネロの背中を眺めながら、僕はおとなしくダイニングチェアに座る。今日は賢者の世界で言う〝七夕〟の日だったとかで、子どもらが夕方からささやかな星祭りの催しを楽しんでいたが、賑やかだったその声も、今はすっかり寝静まっている。
ネロといるとき特有の、心地いい程度に無関心だけれど、幽かに甘い意識も含んでいる、そんな静寂だけが部屋に満ちている。
星が綺麗だ。部屋に入ってきたとき、なにか違和感があると思ったけれど、カーテンがまだ引かれていない。あれでロマンチストなところがあるから、ネロもここで星見を楽しんでいたのかもしれなかった。
「はい、お待ち遠」
「ああ。ありが、……」
とう、の語尾が消えた。
僕は、テーブルの上に供された物を、凝視して固まっていた。
星が光る。
グラスの中の夜に、星が光る。
ネロの洗練された指先が音もなく置いたのは、華奢なフォルムのワイングラスだった。その中に、夜が満ちていた。
ラピスラズリのような、本物の空よりもうんと童話めいてうつくしい紫紺色が、きらきらと不規則な断層を織り成しながら、ガラスの世界を満たしている。その一面の夜色の天頂、グラスの水面には、溢れんばかりの金色のささめきが飾りつけられていた。星雲のように紫紺の夜を下る金箔の流れの折々には、仄かなピンクや、淡いパープルや、優しい水色の、小さなシュガーの二等星、三等星。一等星の在り処は、天頂だ。黄金の川の源で、グラスの縁に身を凭れるように浮かんだ大きな星が二粒、その透きとおったからだの中に、ほんのりと青紫のマーブルカラーを湛えながら、静かに寄り添い合って、瞬いていた。
一瞬にしてグラスの中に視線が吸い込まれてしまった。まるで、僕の言葉がグラスの中の夜に逆に食べられてしまったみたいに、時が止まっていた。
飲み込んだ息を、やっと、溜息みたいに吐き出したとき、一体、秒針が何回打っていたものか僕には分からなかった。
「七夕ゼリー。……みたいな」
簡潔な料理名を、ネロは素っ気なく述べた。
……綺麗だ。僕がどうにかそう言うと、ふっと満足げに笑う気配がした。
「これはほかの誰にも作ってない。あんたにだけ、特別な」
いつもみたいに囁かれて、けれどそれは、はっきりと、いつもとはどこか違っていた。
僕はそのことに、ちゃんと気付いてしまって、瑠璃紺のグラスから漸く視線を引き剥がして、どくどくいう心臓を抱えながら、ネロを見た。
ネロはテーブルの傍に立ったまま、窓の外の本物の星明かりを眺めていた。
ネロ、と僕は呼ぶ。なにか答えたくて、いや、答えなければ伝わらなくて、だからなにか言いたいのに、しっくりくる言葉が一つも浮かんでこない。ネロの横顔と、星空のジュレとをしきりに見比べて、僕は愈々、情けない気持ちで口を開いた。
「……ええと……。こんなふうに、洒落た口説き方をされて……僕は、なんて返したらいいのか……。その、気の利いたことが、なにも言えなくて……」
じんわりと痺れてくる頭の中で、惑うまま拾い集めた心情を、もごもごと呟く。ひどく物足りなくて切ないけれど、それが精一杯だった。
ネロは、視線を窓の外から引き揚げてきて、僕の目をじっと見つめた。それから、今、思い出したというように、そっと頬を染めたかと思うと、はにかんだ様子を隠すこともなく、とろっと目尻を蕩かして微笑んでくれたのだ。
「照れてくれたらいいよ。それか、喜んでもらえたら。……あとは、それ、食べてくれるなら、もう、それだけでいちばん嬉しいかな」
ネロの綺麗な指が、銀色のスプーンを差し出す。
こちらに向けられた、パフェグラス用の長い柄を、僕は、慎重に受け取った。それはなにか、二人きりで行う秘めやかな儀式のようで、胸がぎゅっとなった弾みに、触れかけた指先がほんの少し、震えた。
星空ジュレ
