ネロファウ

きみ不足

 今日はなんだか、ネロに触れられたい。
 ベッドにぼんやりと腰掛けたまま、ファウストはやはりそう思った。なんとなく一日中思っていたようだったけれど、夜になってもまったく、その漠然とした熱は消えていかなかった。
 溜息を吐いたら、その甘さに自然と苦笑が漏れる。恋情を含んで甘ったるくて、そして身勝手な思考が甘っちょろい。
 なにせ、今日はネロと殆ど顔を合わせなかった。ファウストが部屋を出る気分ではなかったからだ。久々に授業もないし討伐もないし、と思うと一気に身体が重たくなって、ずぶずぶとベッドに沈み続けた。昼前に朝食の残りを少し貰いに行ったときだけ、ネロの顔を見た。夕方頃、流石になにか食べてくれと部屋に膳を運んできてくれたのはヒースだった。
 ベッドに転がったり、ぼうっとキャンドルの火や鏡の装飾を眺めたりしながら、日がな一日ファウストは考えていた。ネロは今どこにいるだろうか。ネロは今、なにをしているだろうか。
 たぶん魔法舎のどこかにいて、ひょっとすると食材の買い出しに出かけていて、調理に追われていたかもしれないし、ファウストと同じように部屋に引き籠もって本でも読んでいたかもしれなかった。ネロがいないのに、ネロのことばかり考えた。不在の在というやつだ。いや、ネロがいたってネロのことは強く意識するけれど、でもそれはどちらかというと自然なことなので、まだ言い訳が利くのだ。
 ネロがいるならばネロのことを考えるのは当たり前で、そうしなければきっとネロの方だって拗ねてしまうから、ファウストがネロのことを考えても悪いことはなにもない。けれど、ネロがいないのにネロのことばかり考えてしまうのは、これはよくない。
 必要もないし意味だってないのに、ここにいない彼のことを考えてしまうのは。あからさまに、恋とか、執着とか、行きすぎた好意とかの形をしている。それはだめだ。ネロには重たいだろう。ネロに持て余されるのはファウストだって耐えられないから、こんな思いを本人に知られるわけにはいかない。
 つまり、客観的に見て〝そういう雰囲気〟が生まれる余地もなかった一日の終わりに、きみに抱かれたいだなんて頭のおかしいことは切り出せる筈もないのだった。
 ――でも、せめて会えないだろうか。
 そう、一目だけでもいい。この期に及んでファウストは緩慢な決意を固めて、けして軽くはない腰を上げた。やっぱりネロに会いたい。こんな熱を抱えたまま一人ベッドに戻ったところで、とても寝付けるとは思えなかった。
 どうせ喉も渇いた。水を飲むという名目でキッチンに行って、それで今日は終わりにしよう。今日抱いた欲望にも情動にも、それで一旦、けりをつける。
 ひょっとしたら、二人きりにはなれないかもしれない。それはたとえばシノとかブラッドリーだとか、偶にはリケだったり賢者だったりする、食堂のヘビーユーザーというか、殆どネロの固定ファンであるやつら。夜な夜な食べ物を求めがちな彼らのうち誰かは、既にキッチンを訪れているかもしれなくて、そうするとファウストの居場所はもう、ネロの隣には空いていないかもしれないのだった。
 けれどもう、それでもいい。ファウストではない誰かの世話を焼く声でも、ファウストよりももっと気心知れた誰かと言い合う声でも。なんでもいいからネロの声を聞けたならば、もう、少しも顔を見ることもできないまま来るべき暗い夜に独りで構えるよりは、きっとずっと、その方がいい。
 手の中に小さく明かりを灯して、廊下に出る。そっとドアを開閉する音すら、いやに大きく響いて聞こえるほど、今宵の魔法舎は静まり返っていた。
 ――ネロはそもそも、もうキッチンにいないかもしれない。そう思いついたのは、静寂の中をだいぶ歩いてからだった。とっくに後方に置いてきてしまった扉を思って、ファウストは落ち込む。ネロの部屋のドア。叩いてみた方がよかったんじゃないだろうか。けれど、今となってはもう仕方がない。どのみち今のファウストは、ただの〝深夜に目が覚めてコップ一杯の水を求める人〟でしかあれないのだ。
 いなければいないで、キッチンに残るネロの痕跡を、一つでも二つでも辿って心を慰めよう。仕込みの終わったパン種だとか、綺麗に拭き上げられた調理台の曇りのなさだとか、ネロが手ずから吊るしたであろう玉ねぎが軒の下に揺れている光景だとか。もうそういうのでいい。そういうのでも、いい。据わったまなざしを遠くに打っちゃってそんなことを真面目に考えるほど、今日のファウストには圧倒的に、ネロという成分が足りていなかった。
 廊下の先に目を凝らせど、ダイニングから漏れる明かりは見当たらない。一歩毎に不安に淀んでいく気持ちが、しかしいざその部屋へ足を踏み入れた瞬間、いっそばからしいほど一気に晴れ上がった。
 幽かに響く包丁の音と、瑞々しい青物の香り。
 ――ネロだ。
 こっそり耳を欹ててみても、人の声は聞こえない。あのネロが、ファウスト以外を傍に置いて世間話の一つも振らずに、無愛想な沈黙を保っているとは思えなかった。
 キッチンの入り口に立って中を覗き込むと、思ったとおり、一人で黙々と調理をしているエプロンの背中が目に入る。
 その光景を確かめて、ファウストは胸を撫で下ろした。たとえ一瞬で終わるかもしれなくても、ネロの隣、彼のいちばん近くに、今は自分が滑り込めるのだと知ってほっとした。
「ファウスト?」
 こちらを見ないまま声が放たれて、思わず肩が跳ねた。
 足音がそんなに分かりやすかっただろうか。抑えて来たつもりだったけれど、うるさく思われただろうか。嬉しいような、不安なような気持ちになって、心臓がじんわり早鐘を打つ。
 ファウストが幽かに返事をすると、ネロは、普段と変わらない気怠げなトーンで告げた。
「どうした? ごめん、今手が離せなくて」
 そう言う間にも、こちらを一瞥もしない。けれど、忙しいからと苛立ちを向けられている感じもない。目の奥が不意に、じんと熱くなった。そんな気がして、ファウストは妙な錯覚を紛らすように首を振った。
「いや。水を飲みに来ただけだから大丈夫だ」
「そう」
 ネロは相変わらず気のないように頷く。ファウストはその心情について、あまり深く考えたくなかった。そそくさと、謝られるまでもなく端から自分でやるつもりだった、目的の作業に取りかかる。
 ネロが手作業をしている横で魔法を使うのもなんとなく憚られて、……いや、ファウスト自身がそれを淋しく思うので、食器棚まで歩いて行って自分の手でコップを掴んだ。なんでもない動作だけれど、魔法を使わない分、ほんの少しだけ、本当に僅かながら、手数がかかる。時間が延びる。ネロと、ほんの少しでも、長く一緒にいられる。
 まるきり益体のない行動原理に則りつつ、横目に、ネロの姿を見る。背後の作業台には既に、朝食用であろうパン種が寝かせてあったけれど、今は煮沸した野菜をひたすら酢漬けにしているようだった。
 本当に働き者だ。趣味を兼ねているとは言っていたけれど、彼の姿を見ていると、ファウストはなんだか自分が一日中ベッドでぼうっとしていたことが後ろめたくなってくる。
 そのうえ触れてもらいたいだなんて、やっぱりどうしたって厚かましいにもほどがあったのだ。今更じっとりと滲んできた羞恥から目を背けながら、ファウストはシンクの前に立った。ぼんやりした視界の端に、ふと、琥珀色の光が閃いた気がした。
 身に馴染みすぎた感覚に思わず振り向くと、思ったとおり、ネロがこちらを見ていた。端正な顔になんとも茶目っぽい笑みが乗っかっている。ファウストの視線は一瞬で吸い寄せられて、目が離せなくなる。
 動きを止めたファウストを見て、ネロはその悪戯げな笑みを、さらに深めた。そして揶揄うような、冗談めかした口調で、言った。
「今日、久し振りに会うな。元気してた?」
 その途端、ファウストの身体を不思議な感覚が頭のてっぺんから爪先まで一気に駆け抜けた。心が得も言われず高揚するような、同時に逆に、凪いだ湖のように広く深く鎮まるような。ごちゃごちゃと節操がなくて、けれども、単純な強さでもって思考を射止められるような感覚。
 ――ネロがファウストの不在を〝不在〟として認識していてくれたことが、嬉しい。それは勿論、ファウストが二六時中ネロを思っていたのなんかとはまったく違う質感のものではあろうけれど。それでも、ファウストがいなくたって別に不都合でも不自然でもなんでもなかった筈の休日に、今日いないな、って認識していてくれたらしいことが、それが本当に、嬉しかった。
 人懐っこいような笑顔を向けてくれるのに胸を掻きむしられるような思いがして、ファウストも、自然と微笑み返してしまっていた。実際ネロは人懐こいのではなくて、ファウストに懐いてくれているだけなのだということを、知っているから。
「うん。……おかげさまで」
 浮かれる心を押さえ込んで、当たり障りのない台詞を捻り出す。ネロからは、そ、と軽やかな返りがあった。
 短いのに素っ気なくない、向けられるとあったかい気持ちが湧き上がるような、柔らかい声だ。このやりとりが終わるとネロはあっさり視線を外してしまったけれど、際限なくゆるみそうになる頬を必死に引き締めなければならないファウストにとっては、それが、今ばかりはありがたかった。
「朝見かけたとき、なんとなく顔色悪く見えたからさ。ちょっとだけ気になってたんだよな」
 バットに広げていた野菜を次々瓶に詰めてゆきながら、ネロがなんでもないことのように言う。
 ばくんと、心臓が鳴った。
 ファウストはたたらを踏むような目眩を覚えて、思わず、空のコップをぎゅっと胸に抱いた。油断、した。どくどくと込み上げる熱を、これ以上は昂って外に漏れ出してしまわないように、必死に押さえつけた。
 彩り豊かに整然と詰め込まれた、野菜たち。時を止めてガラス瓶に閉じ込めるみたいに、透きとおったピクルス液で満たされてゆく。うつくしくて、現実感のない光景は、ファウストののぼせた頭をゆっくりと冷やすのには却ってよかった。淀みない手捌きを見つめながら、ファウストは、音を立てないように必死に深呼吸を繰り返した。
「……それで、夕食をヒースに持たせてくれたのか……?」
「いや、言い出したのはあいつだよ。俺は、あんまり構いに行くのも却って悪いんじゃないかと思って……二の足踏んでたんだけど。結果的にあれでよかったみたいだな。やっぱ、ヒースには敵わねえや」
 瓶に蓋をしてゆきながら、ネロが笑った。一瞬一瞬、見た目の美しさを計算してそういうふうにしているみたいに、ネロが瓶に添える手は、蓋を回す指は、繊細に整っていて、そのうえふとした瞬間に、幽かにアンニュイに乱れて、どう見たって本当に綺麗だった。
「そんなことない。確かにヒースは優しい子だけれど……きみの料理、今日も美味しかった。夕食も朝ご飯も。……ありがとう、ネロ」
「……はは。どういたしまして」
 面と向かって伝えられなかった夕べの礼を、漸く言うと、ネロは少し落ち着かなさそうにしながらも、いつもみたいに答えてくれた。
 野菜を茹でていたのとは別の鍋が温められ始める。じっと温度の変化を待つ間、降りた沈黙の中で、ファウストは火照った頬を冷ましたくて目を伏せた。そこではたと我に返る。
 自分の両手にコップが握り締められている。そうだ。ファウストは〝水を飲みに〟来たのだった。
 ネロとお喋りしに来たのじゃない。いい雰囲気になろうと企んで会いに来たわけじゃ、ない。
 重たい熱を万一にも悟られないためにも、元のように〝水を飲みたい人〟にならなければ。そう思ったら、浮ついていた心も、隙間風のように吹き抜けた淋しさに冷やされてあっという間に萎んでいく。うかうかしていると本当に少しも動けなくなってしまいそうだったから、ファウストは仕方なく、のろのろと顔を上げた。
 水を飲む人としての自然な流れを、正しく実行する。蛇口の下にコップを差し出して、震えないように意識しなければそうあれない、もう一方の手を、どうにか持ち上げてレバーに伸ばす。そのときだった。
「あっ」
 突然慌てたような声が上がる。びくっと身体が竦んだ。
 ファウストは狼狽えて、身構えもせず無防備に、声のした方を見遣った。ふわっと立ち上った白い湯気越しに、驚いたような顔のネロと、目が合った。
 ばくばくと耳の裏で脈が鳴っている。なにか、目に見えて変なことをしてしまっただろうか。頭の中ではだいぶ変なことを考えていただけに、ファウストは自身の潔白を咄嗟に信じられない。心許ない気持ちを隠せずに見上げていると、ややあって、ネロの方からふらっと視線が外された。
 途切れがちに、言葉が継がれる。
「いや、えっと……あの、よければ、お茶……ハーブティーでも淹れるけど。ほら、水よりも眠りやすくなるかもしれねえし……」
 願ってもないことだった。
 まるでファウストの妄想そのままみたいな言葉が、あまりにも唐突にネロの口から飛び出した。これを夢ではないと、咄嗟に信じる方が難しいのは当たり前のことだった。
「……あ……ありがとう。でも、忙しいんじゃ……」
「いいや」
 礼は言いつつ、ひしゃげそうな理性を保ってどうにか引いて見せると、意外にもネロはぱっと顔を上げて、食い入るようにファウストの目を見つめてきた。
「全然。もう、もうじき終わるから……その、あとちょっとだけ、時間、大丈夫だったりするか……?」
「……う、うん」
 語尾に向かうにつれやはりふらふらと視線を彷徨わせてゆくネロが、なんだか辿々しく言葉を紡ぐから、ファウストの返事もぎこちない頷き一つになってしまう。そんな愛想のない返事でも、ネロはほっとしたみたいに幽かに笑ってくれて、その表情ひとつで、ファウストの胸は呆れるほど簡単に、きゅんと甘酸っぱく引き攣れるのだ。
 ネロの方から引き留めてもらえた。思いがけない僥倖に、どきどきと高鳴ってゆく鼓動が抑えられない。
 ネロにしてみればきっと、特別なことなんてなにもない。ネロという人が、元々あまりにも優しいから、あるいは、手に入れたハーブが誰かに自慢したいくらいよかったからとか、そういう理由なのだと思う。だとしても、今、ほかの誰でもないファウストに優しくしてくれること、あるいはささやかな自慢を披露する相手に、偶然にしろファウストを選んでくれたこと。それらの幸運を、ファウストは心から喜ばずにはいられなかった。
 ガラスコップはすっかり元の場所にしまってしまって、代わりに、手作業でティーセットを準備することにする。敢えて時間を引き延ばしていたかった先ほどとは打って変わって、今度は、身体がふわふわと踊るみたいに軽やかに動く。簡単に心に引き摺られる己の肉体のあり方が、あまりにも単純で、低俗で、笑い出したいくらいにおかしかった。
 キャビネットの前に立って、何種類も揃えられている茶器の、花畑みたいな景色を覗き込む。どれがいいかな、と訊いたのは、ネロは自分でお茶を淹れるならカップのデザインにも拘るひとだからだ。
 沸いたお湯にピクルスの瓶を沈めながら、ネロは、真っ白い地色の底から淡い紫の花がふわりと咲き零れているような、対のカップアンドソーサーを指定した。
 ポットが要らないということは、シチュードティーでも淹れてくれるつもりなのだろうか。彼が手間のかかることをしようとしてくれていることに、しかし、申し訳ないと思うよりも、やっぱり嬉しさの方が勝ってしまう。
 もしかしたら元々、ネロ自身が、仕込みが終わった後でお茶をするつもりだったのかもしれない。だとするならば、彼が一人で楽しむつもりだったティータイムに、同席できてしまうというのはやっぱり幸運でしかなくて、それを思うと、ファウストの鼓動はぽこぽことまるで歌い出しそうに跳ねるのだった。
 ネロはやがて、脱気の終わった瓶を鍋から引き揚げると、ぎゅっと蓋を閉め直した。捲った袖から見える腕が、相変わらず頼もしくてきれいで、見つめていると際限なくどきどきできてしまう。幸せに、なってしまう。ファウストは今、何度目になるのかは分からないけれどとにかくもういちど、ネロに恋をしたのだということを自覚した。
 ネロが洗い物を始めたので、ファウストは彼の隣に待機していようと腰を上げた。洗い終わった物を拭いて片付けるのくらいは手伝える。
 そう思ったのに、「おとなしく座ってな」とまるでちょっかいを出したがる子どもを窘めるみたいな目を向けられてしまって、ファウストは鼻白んだ。そりゃあ、ネロに比べたら手際なんて赤子レベルだとは思うけれど、それにしたって完全に役立たずだとまで言われるような筋合いは、流石になく、ないだろうか。
「今日のあんたに仕事なんかさせたら、ヒースに泣かれちまう」
 ファウストが落ち込んでいるのを見て取ったのかは分からないが、ネロはそうやってとってつけたような台詞を吐いた。
 流石にそんな言い訳はない。そう思うのに、凪いだようなひどく優しい声で言われると、どうしてだかなにも言い返せなくなる。それでファウストは、すとんとおとなしくキッチンの椅子に座り直してしまった。
 それから、ネロは魔法のようにあっという間に調理器具を片付けて、流し台や調理台の上まですっかり拭き上げてしまった。職人仕事だ。ファウストが知らず見惚れていると、気付いたネロがこちらを見て、淡く笑った。その表情がカラメルソースみたいにほろ甘く見えたから、居た堪れなくて、目を逸らした。
「……お待たせ。今から、淹れるな?」
 耳朶に届いた声は、網膜に焼きついた笑顔よりももっとずっと甘く聞こえて、お礼を言うファウストの声は、変に上擦っていやしなかっただろうか。
 静謐に還った調理台の上に、改めて、一つのミルクパンが取り出される。
 新たな幕が開演するのだ。
 予想どおり、ミルクティーを淹れ始めたネロの姿を、ファウストは手伝うタイミングを計っていたときとはまた別の意味でそわそわとしながら見つめていた。ネロがパントリーの奥から取り出してきたのは、カモミールのブレンドティーだった。まるで虎の子みたいにそっと抱えてきたそれを、惜しむ様子もなく、それどころか秘密の共犯みたいな顔をして分け与えようとしてくれることに、どうしようもなくときめかされる。この役者はとっても、罪つくりな演出が得意だった。
 いい香り。思ったまま呟けば、ネロは空気を擽るようにして笑った。その吐息は、ファウストの胸の中までも指を伸ばして擽ってくるみたいだ。一瞬、身体に淡い電気が走って、けれど深い香りと共に立ち上った湯気が、そのうちそんな錯覚も白くぼやかしてしまった。
 ネロの淹れ方は先ず、鍋に量り入れた茶葉を、全体がかろうじて浸るくらいの水でぐらぐら煮出す。そこへ後からミルクを投入して、今度は沸騰しないぎりぎりのところまでひたすらまっすぐ煮詰めてゆくのだ。まっすぐに、けれど少しも行きすぎないように、慎重に。
 何気ないような目つきで鍋を見守りながら、ネロはただじっと作業に集中している。その端正な横顔に見惚れて、ファウストもただ黙っていた。
 どのくらい経ったか分からない。いつまでも続くようにも思えた時間が、不意にその整列を乱した。ネロが、パンをさっと火から下ろしたのだ。
 変わらない一瞬の繰り返しに見えた時間は、けれども無限ではなくて、確かに小さな変化を内包していた。火を止めるという一見青天の霹靂のようなネロの動作は、その実、連続した小さな変化の集大成として順当に導かれたものに過ぎなかった。
 終演に気付かないほど、茫然と夢に引き込まれていた。ネロの目がなにかを探すように動いて、それで漸くファウストははっとした。慌てて、調理台に置いていたカップアンドソーサーをネロの許へと運ぶ。あとは、鍋の中身を漉しながら、カップへ注ぐだけだ。
 手際悪く二脚重ねられたままのそれを、ネロは文句も言わず、両手で丁寧に受け取ってくれた。肌が触れ合ったわけでもないのに、カップの側面へネロの指先が届いた瞬間、じわっとファウストの手のひらへまでも温かな熱が伝わってくる。勿論、そんなものは錯覚だ。その筈なのに、ファウストの身体は実際に、芯から茹だったような熱をあっという間に帯びてしまっていた。
「ありがと。……すぐに持ってくから、あんたは向こうで待っててよ、俺のおひめさま」
 ネロの淡い笑顔は、揶揄うようでいてそうではない。殆ど不意打ちに、びっくりするほど甘い声で囁かれたから、ファウストはその声色に対する衝撃が勝ってしまって、自分が今なにを言われているのか正直よく分からなかった。
 けれど、衒いなく甘やかすような表情から、おとなしく座っているようにと促されているのは分かる。ファウストはどうにか、頭を動かして、頷くと、熱くなった顔を隠すように這々の体でダイニングへと逃げてきた。
 星明かりのよく射す窓際。……から、一つ離れた席を選んで、ふらふらとへたり込む。サングラスを外して瞬けば、蒼い陰がすうっと目に馴染んだ。持ち上げた手が震えていたのは、気付かなかったことにした。
 借りてきた猫みたいな風情にならないように、うんと背筋を伸ばしてみる。清けき月明かりの、隣の薄暗がりの中で、無駄に堂々として待っていると、ほどなくしてネロもダイニングに現れた。
 片手にトレイ、もう片方の手に火を入れたランタンを提げている。ファウストのいるテーブルにトレイを置くと、明かりの方は、火屋の上からふっと息を吹きかけてそのまま消してしまった。ネロの魔法の使い方は、なんだか静かでロマンチックで、だから、ファウスト好みだ。
 火の消えたランタンを足許に置いて、ネロはファウストの向かい側に腰を下ろした。その手が引き寄せたトレイの上には、揃いのカップにうつくしく満ちたハーブミルクティーが二つ。そしてその傍に、もう一つ、なにかの瓶が一緒に乗っていた。まるっこいフォルムが、月明かりを乱反射してきらきらと瞬く。ハニーポットだった。
 その中身はとろりとした琥珀色をしている。月光に当てた水ではなくて、本物のはちみつだ。
「意外に、あんまり甘くならないんだ。たぶんあんたにも飲みやすいと思うよ」
 ポットから惜しげもなく掬い取られたはちみつが、ネロの声と共に、カップの中へ落ちてゆく。ディッパーの先からまるで紗を織り出すように生み出される黄金色の帯は、窓明かりに当てられて、ところどころ薄く透きとおったり、不意に深く陰ったりしている。本物のはちみつはネロの瞳の色みたいだから、魔法舎に来てからのファウストは、この色をとても好きだと思うようになっていた。
 たっぷり二掬い分のはちみつが加えられたミルクティーを、ネロの指が銀色のティースプーンを抓んでくるくると掻き混ぜる。
「どーぞ」
「ありがとう。……いただきます」
「はいよ、召し上がれ」
 ネロは気の抜けるような声で答えながら、自分の分のお茶を仕上げにかかっている。ファウストのと同じように二掬い分、はちみつを垂らした後、ディッパーをそのままカップの中へ突っ込んでぐるぐる掻き回した。
 そんな少し砕けた姿を見ることができるのを、一々嬉しく思う。カップの中には、幽かな星明かりをつるつると反射する、優しいベージュ色が揺れていた。温かなハーブの匂いは強すぎなくて、茶葉の香りと心地よい加減で混ざり合いながら、鼻腔を撫でる。ふう、と息を吹きかけ、吹きかけ、そっと一口、口を付けた。
 香りが鼻に抜ける。温かい塊を飲み下して、目を見張った。
 とろりと舌に甘さが咲く。お茶自体の味がもたついているわけではないのに、舌に触れ、腹に落ちた瞬間、甘美な陶酔はファウストの身体の中で溢れんばかりに渦を巻いて、ぎゅうっと胸を締めつけたのだ。
 けして強烈ではないハーブの刺激とはちみつの香ばしい風味とが、身の内で沸き立つ甘い熱をやんわりと戒めてくるようで、しかしそれすらもまるで背徳感を煽るように、恋する心を狂わせる。
 温かな安眠薬は確かに身体には効いていて、頭の芯がじんと痺れて、手足から余計な力は抜けていくようなのに、それが却って、がんじがらめに封じてあった感受性の縛りを解いてしまうようだった。形のない心が、皮膚という枠を超越して、部屋いっぱいに感覚を張り巡らして、ネロといるこの時間を少しも余すことなく平らげてしまおうとしているみたい。
 お茶と共に飲み込んでいた息を、は、と吐き出す。カップから口を離したネロと目が合う。彼は、笑っていた。
「……美味しい」
 掠れた声で伝えると、ネロはそのおかしそうな笑みをぐっと深くした。そっか、よかった、と返してくる声も笑っていて、こちらの気持ちなんて口にする前から見透かされていたのだと、ファウストは知った。 
 誘われるように続けて一口、二口と口にする。ネロのハニーハーブミルクティーは、不思議と癖になる味だった。それも狂おしく病みつきになるという感じではなくて、たとえば涼しい夕暮れの窓辺のような、微睡む布団の中のような、暖かい陽だまりの草の上のような、そういう安らかな居心地のよさで、ファウストの身体を穏やかに温めてゆく。
 まるでネロみたい、だ。そんなふうに思ったら、もう一つ溜息が漏れた。逃さず聞き拾ったネロが、また、あの胸が擽ったくなる笑い方をした。
「気に入ってもらえてよかった」
 ネロはテーブルに頬杖を突いていて、こちらをまっすぐに見つめたまま、ゆっくりと一つ、瞬きをする。それはまるで、猫が気を許した相手に送るサインそのもので、ファウストは、自分がどうしようもなくネロに愛されているのだということを不意に疑いようもなく分かってしまった。
「……ネロ、……」
 呼びながら、ファウストも小さく、一つ瞬きを返した。ネロは眩しそうに目を細めて、それを真正面から受け取ってくれる。唇がゆるむ。
「だいぶ調子が戻ったみたいだな。……よかった」
 ファウストが気付いて身構える暇もなく、ネロのゆるんだ唇から甘い声が滴った。とくんと、胸を突かれる。慕う相手から心配してもらって、嬉しいやら、単純なやつだと笑われているようで悔しいやらで、ファウストは綯い交ぜになった感情を持て余した挙句、拗ねるような表情を作ってネロを見つめた。
「心配してくれたのは、ちょっとだけだって言っていたのに」
「そりゃ、……まあ……そうは言っても、」
 ネロはふと、逃げるようにカップを持ち上げながら目を逸らした。
「……やっぱり、大事な俺たちの先生だからな」
 そう言ったときの眉の寄せ方が、たぶん彼が照れたときのそれだったから、ファウストはその台詞をあまりにも真に受けて胸苦しくなったりはせずに済んだ。だからこそ、少し笑って、こんなふうに気安く返すこともできた。
「僕はつくづく、生徒に恵まれたな」
「こちらこそ。あんたはきっと、最高に〝慕い甲斐〟のある先生だよ」
 暗に〝慕う〟の主語を子どもらに擦り替えていくような物言いに、ファウストは自分自身のことを棚に上げて、本当に狡いやつだなあとおかしくなってしまう。含み笑いを横目で睨まれたので、敢えて小首を傾げて見せた。
 かわいいよ、となんだか力尽きたような風情のネロに褒められたので、素直に勝利を噛み締めておくことにする。澄ました顔でお茶を楽しんでいると、ネロはふてたように唇を尖らせて、お行儀悪く頬杖を突いたままカップを呷った。きみの方がかわいい、とは、思うだけにした。
 他愛ない言葉をぽつりぽつりと交わしたり、静かに星影のさやめきに耳を傾けたりしていると、ファウストの心は、不思議と凪いでくるようだった。ネロの言葉と沈黙のリズムに触れる度に、つまりは、ネロの息遣いを感じる毎に、自分の中で少しずつ、なにかがほぐれていく。なにかが少しずつ埋まってゆく。胸に広がるその安堵感が、ファウストの中の、燻るような熱を持って疼く炎症を確実に癒していった。
 淡い紫色の花に抱かれて、ベージュの入眠剤が薄く揺蕩う。……カップに残ったお茶の分だけ、ネロといられる気がしていた。辛抱強く、名残惜しく、一口分だけカップの底に張りついていたハーブティーを、ファウストはついに飲み込んだ。
「ごちそうさま」
「どういたしまして」
 カップが空になってしまえば、もうここにこうして座っている理由はない。ファウストは〝水を飲みたい人〟からはやや昇格したものの、ついに〝水を飲もうとしたら同情を買って手の込んだ入眠剤を振る舞われた人〟以上のものではあれなかった。
「……ああ、いいよ。片付けはやっとくからさ」
 立ち上がって、せめてとトレイを持ち上げようとすると、同じように席を立ったネロにやんわりと手の甲を押さえ込まれた。
 またか。思わず眉が上がる。これほどささやかな礼でさえ受け取ってもらえないことに焦れて、ファウストは今度こそ不満の片鱗を表明した。
「わざわざこんな美味しいお茶を淹れてもらったんだから、洗い物くらいする」
 本当に、今日はなにもかもネロから施されてばかりで、ファウストにとっては随分据わりが悪いのだ。より正確に正直に言うならば、こういった不均衡なやりとりは、積み重なればきっとネロに愛想を尽かされてしまうという予感がもうずっとあったから、ファウストとしては、自覚できるかぎりの差分はこまめに精算しておきたい、ということなのだけれど。
 それなのに今日に限って、肝心のネロが「気にするな」の一点張りだった。頑なに芯を通しながら、けれども手触り自体はひどく優しい声で、ファウストにまるで噛んで含めるように言い募る。
「それよりちゃんと休めよ、ファウスト。だって、」
 そこで、不自然な間が生まれた。そんなところで言葉を切られるとは思っていなかったのは間違いなくファウストの方なのに、まるでネロの方こそがそんなの思いもよらなかったみたいな顔で、見るからに戸惑っていた。訝るファウストの前で、ネロはふらふらと暫く落ち着きなく視線を彷徨わせて、何度か小さく唾を飲み下した後、漸く、言葉を継いだ。
「だってあんたは、…… 俺の、特別に大切なひと、だから」
 こちらを単に押し留めるために添えられた筈の手が、不意にするっと肌の上を滑って、手首を強く掴む。目を白黒させるファウスト自身を置いてけぼりにしたまま、ネロのぎこちなく優しい手はそのままファウストの左手を持ち上げて、そして、
「だから、……おやすみ」
 手袋を嵌めていない、剥き出しの手の甲に、唇が落とされた。
 かさついた薄い皮膚。生々しい肉の触感。
 ぱちん、とその瞬間、弾けるように火が点いた。
 ファウストの身の内で、ぶわっと逆巻くような熱が湧き起こる。穏やかな時間に撫でつけられて漸く寝静まった筈の、あの、焦がれるようなどうしようもない、遣り場のない熱が。
 ファウストは身を衝く情動のまま、いきなりネロの胸に飛び込んだ。
「なんで、なんでこんなことするの。眠れない……」
 身勝手なことを口走りながら、肩口に額を押しつける。恋の熱がハーブの薬効なんてあっさり凌駕してしまって、今やファウストの心臓を、どくどくと無遠慮な強さで内側から叩き回って暴れていた。
 ごめん、と掠れた声で詫びる彼の首筋へ、前髪をぐしゃぐしゃに乱しながら必死に顔を擦り寄せる。「ねろ」身も世もなく恥も外聞もなく、極限まで甘えきった声を出して名前を呼んだ。
「ねろ、ねろ、きみと逢いたくて、ぼく、ここにきたんだよ」
 だからもっと一緒にいて。帰すなんて言わないで。甘ったるい懇願が、考えるよりも先にいくつも口を衝く。耳許で、ネロの喉が大きく鳴った。腰に絡みついた力強い腕が、頭の後ろを抱え込むように捕らえる指が、痛いくらいにきつく全身を抱き締める。ファウスト、と殆ど吐息だけで呼んでくれた声が、ひどく熱く首筋の肌を濡らして、ファウストは身を刺し貫かれるような幸福の予感に震えた。
「……こんな、つもりじゃなかったんだ……あんたともう少し一緒にいたいと思っちまったのは、間違いないけど、でも、こんな下心があって引き留めたわけじゃなかったんだ。本当に、絶対に、そうじゃない。そうじゃない、けど、……でも、なのに、俺、……」
 ネロの誠実な声が、ファウストの耳の上でくぐもって、切ないほど鮮明に彼の心を伝えてくる。
 分かっている。ネロがそんな邪な意図でファウストに優しくなんてしないことくらい、ちゃんと知っている。〝そんな下心〟を持ってくれたっていいって、思っているのはファウストの方だ。今日は、なんだかネロに触れられたかった。ネロのことが恋しかった。ネロの傍にいてネロを感じて、ネロにもファウストの存在をめいっぱいに意識していてほしかった。ひとときだけでもいい。ネロのいちばん近くにいたい。
 だから、ネロに、触れられたい。
 僅かに、腕の力がゆるんだ。不安に思って詰め寄る間もなく、すぐさまぐっと至近距離で顔を覗き込まれる。どぎまぎするファウストの瞳だけを深く見つめて、ネロは二人の隙間を埋めるように、囁いた。
「……今から、あんたの部屋に行ってもいい?」
 ぽとん。
 なにかが落ちる音が、確かに聞こえた。ファウストの胸の中、ネロの言葉がきらめく甘いドロップみたいに落っこちてきて、この、気の遠くなるほど広い鏡のような水面に、綺麗に大きな波紋をつくったのだ。
 「……いや、その、変な意味じゃなくて」途端にしょぼくれたような表情に戻ったネロが、なぜかしどろもどろに弁解を始める。
 ファウストとしては〝変な意味〟だろうがまったく構わないのだ。そういう気持ちが、伝わってしまえと思いながら見つめたのに、けれどネロは焦ったように咳払いを繰り返したかと思うと、ファウストの目をいかにも真面目な雰囲気で見つめ返してきた。
「あんた、体調はほんとによくなかったみたいだし。せめて一晩はちゃんと休んだ方がいいだろうし、もうこんな時間だし。それに、せっかく二人でハーブティーを飲んだからさ。今日は、というか……偶には……のんびり、添い寝でもしてみたいな、とか」
 添い寝。ファウストは胡乱に瞬いた。そんな生ぬるいばかりな触れ合いで、果たして治まる熱だろうか。不信が拭えずなおも目線で訴えようとするファウストに、ネロは健気に言葉を重ねてきた。
「……肌を合わせるだけじゃなくてさ。俺、あんたとなら、もっといろんな形で、……愛情表現、っていうの? ……そういうの、できるかと思うんだけど、……ファウストは、どう?」
 その瞬間。
 ファウストの中でなにかがほろりと溶け出した。
 額をこつんと合わせて、上目遣いにファウストの瞳を窺って、ぎこちなく、紡がれた、ネロのその言葉で。
 躍起になって肉欲に薪を焼べていた恋情が、ひとつひとつ、まるでアクアマリンみたいに透きとおった水色のルースになって、ほろほろと残らず溶け落ちてしまったようだった。あまりにも優しく、優しく、思いもよらなかったほどの深い愛情で抱き竦められて、ファウストの激情はそうっと、驚くほど静かに引いていった。
 後にはとくんとくんと、先ほどまでとは違う穏やかなリズムで、けれども甘酸っぱく柔らかく打つ心音が残った。ファウストのと、そしてそれとは僅かに違う周期で重なる、ネロの音。
「僕も、――」
 出した声がうわ言のように響いたので、一度、目を閉じて、ゆっくりと深呼吸した。ネロは、それでファウストの言葉が終わったとは思わず、黙ってじっと待っていてくれた。
「……僕も。きみと愛し合うための、もっといろんな方法が、ほしい。あると言うのなら、見つけてみたいし、見つけた分だけ、試してみたい。それで、きみと、僕が、ふたりで居心地がいいと思えるような方法を、探したい。いくつでも、いくらでも、ずっときみと探したい」
 おぼつかない返事を、ネロはそれでも、受け取ってくれた。重たい恋を怖る怖る手渡したファウストに、うんと照れたみたいな、穏やかな顔で笑いかけてくれたのだ。
 伸びてきた指先が、優しく前髪を掻き上げては撫でつける。ファウストはゆっくりと、瞼を下ろして、それから持ち上げて、あの、猫の愛情表現をした。
「きみは……すごく、僕のこと、愛してくれていたんだね。大切にしてくれてるのは分かっていたけれど……好かれているのかなんて話になると、いまいち、自信はなくて」
「好きだよ。それに、愛してる。ちゃんと伝えられなくて、不安にさせちまってたなら、ごめんな。……というか俺も、あんたにこんなふうに応えてもらえるなんて、全然、自信なんかなかったからさ、……正直、今もちょっと、どうしたらいいか分からんくて……」
 なるほど。妙に饒舌にストレートに、愛の言葉をくれたのは、どうやらネロなりに取り乱していた結果らしい。はにかんだ微笑みがあどけなくて、ひどく愛くるしく見えたものだから、ファウストは、こいつの理性は狂わせてしまうに限るのだなと、ちょっと優しくないことを学んでしまった。
「きみに自信をつけさせられなかったなら、じゃあ、お互いさまだな。これからはもっと甘えてもいい?」
「……いきなりそんなに可愛いと、心臓に悪……い、いや、お願いします。すみません。俺なんかでよければいくらでも……甘やかさせてくださ、い」
 自分で気付いてきちんと言い直したネロは、えらい。八十点くらいの解答を貰えて、ファウストは素直ににまにましてしまった。
 両手を差し伸べて頭を撫でてやったら、むず痒そうにこてんと首を傾いでいる。かと思ったら、おもむろにファウストの左手を捕らえて、手のひらにキスなど落としてきた。まったく、こんなネロのことが本当にかわいくて、自分もネロに本当にかわいがられているんだと分かってしまって、ファウストの心は、優しい雨が染み込んだみたいにすっかりきらきらと潤っていた。淋しさを――相手恋しさを、埋めるための穏やかなやり方を、さっそく一つ、ネロが教えてくれたのだ。
「……ふふ。なんだかよく眠れそうな気がするから、今日は、夢見の所為で起こすことはないかもしれないよ」
「俺のことは気にしなくていいけど、でも、あんたがゆっくり眠れるなら、俺もそれがいちばん嬉しいな……」
 ネロがまた猫の愛情表現をして、それから気遣わしげな力加減で、ぎゅっと抱き締めてくれた。
 いつもの悪夢は、きっと見る。けれど、今、よく眠れそうな気がしているのは本当で、そしてそんなふうに思えてしまうほど、ネロが愛してくれる今この瞬間が、ファウストにとってとても温かなものだということには、なんの間違いもないのだった。
 ネロがやわく微笑んだまま、もう一度、ファウストと目を合わせてくる。それから、閉じた瞼の上と、両方のほっぺたとに、ひとつずつキスをしてくれた。
 恭しくさえ見える、いっそ擦り切れそうなくらいに優しい愛情表現をして、誠実な分だけ臆病になりがちなまなざしを、今は照れたように蕩かして。ファウストの愛しい愛しいネロは、まごうかたなき恋人の甘さでもって、愛しい愛しい存在であるに違いない彼の恋人の耳へと、小さく、ふたりだけの特別な秘密を吹き込むように囁いてくれるのだ。
「それじゃ、あんたの部屋で、待ってて。昼間は一緒に過ごせなかった分、今日の残りの時間くらいは……せめて、あともうちょっとだけ、ファウストの隣にいたい、から」

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