猫に。
なれたらファウストに構ってもらえたのだろうか。
なれたらというか、生まれついていられたら? ネロは変化系魔法が得意じゃない。得意じゃないと口で言いつつ実は十八番だったりしたら、ファウストの目も欺けてちょうどよかったのかもしれないけれど。あいにく普通に苦手だった。
そしてネロは、猫じゃない。楽隠居に失敗したしがない魔法使いである。猫に生まれつけもせず、後天的になりきることもできず。
万策尽きた。ファウストに、猫フリークな想い人に、構ってもらうための方策が尽きた。あっけない。単に構ってもらうための道がこんなにあっさりと絶たれてしまうならば、それってもう、あの、諦めろという運命の女神さまからのお達しなのでは。
脈なんか端からありうべくもねえよという。赤い糸どころかそこそこの関係に落ち着けるほどの縁すらも実はねえんだよという。おまえたち二人、うっかり人生の一点で擦れ違わせちゃったけどもただそれだけだから、袖触れ合ってそれで終わりの、縁とも呼べない偶然だから。とかいう。そういう。
ネロは頭を抱えた。なんだか怠い、身体がとても。重い。心が、頭が、腹の奥が。
今日は嫌な天気だった。晴れていない。雨が降らない程度に、空はぎんいろに曇っている。絶好の、ああ絶好の、かのひとにとってのお散歩日和なのだった。
ネロだってぴっかぴかに晴れ渡った日の下よりも、目に優しい薄曇りや、もっと言うならしとしとと雨滴が視界を閉ざす中の方が快適に過ごせる。身体はね。けれども魔法舎に来てから、もっと正確に言うなら、かのひとに思い焦がれるようになってしまってから、その体質はやや狂いつつあるのだった。
ファウスト。
ネロと同じく、いやそれ以上に晴れの日を厭う彼は、主に曇りの日にぴんぴんとして建物の外へ出る。そうして基本マインドが引き籠もりの彼が嬉々としてなにをするかというと、猫と戯れるのだ。
猫と。
戯れるのだ。
ネロなんかが真正面から拝むことなんてこの先きっと一生どころか転生して出会い直したって永遠に叶わない、そう、叶わない、とても素敵な、笑顔で。
はあ。
むりだ、とネロは思う。寝返りを打つ。やっとられん。今日はくもり。目に優しい薄曇り。目に優しすぎて泣けてくる。泣けるから、思わず昼間っからベッドでごろごろしてしまう。昼間っていうのはちょっと鯖読んだ。実は午前中からほぼずっとこうしている。朝食をほかのやつらが大体食い終わった後、暫くして勝手口から現れたファウストが、「なにか残り物がないか」とねだってきたそのときから。小魚かソーセージの切れ端か。渡してやったら、誤魔化しきれていない嬉しそうな表情で、ありがとうと言って、そしてそのまま、勝手口から出て行った。
あれがファウストの口に入ることはない。ネロはとっくに知っている。ファウストの顔に滲み出る嬉しげな笑みがネロに向けられたものではないことも、残念ながら勘付いている。懇意にしている猫ちゃんどもへの貢ぎ物が無事に手に入ったことを喜んでいるのだ、あれは。ファウストの方はそのご奉仕で猫ちゃんどもの信用を稼げて報われようけども、ネロの方の奉仕は一体。一体、どこへゆくのだろう。
勿論、どこにも行けないのだ。
ネロは枕を頭の下から半分引っ張り出して、折り曲げたそれで顔を覆った。しにそう。窒息しそう。
ため息もつけぬ。分厚い枕がもごもごとネロの鼻も口もだらしなく濡れる目許もすっかり覆ってしまっている。
「好きだったあ……」
意図せず唇が描いた言葉も、無論声にはなりきらんかった。
猫、だったら。
……なんて、まさか。
ヒースクリフもシノも、レノックスも、フィガロも。猫じゃない。猫になりきれはするのかもしれないけど、彼らは、少なくとも彼らは、なりきらなくたって。
ファウストに想われてる。
「……………………」
まくらってべんりだあ。こうして目も口も塞げば、気持ちのわるい独り言が生み出されないどころか、たとえしゃくり上げたって泣いたのはなかったことになるだろう。素晴らしい。もう一生これでいく。
さなぎになりたい。
猫になれるならなりたい。
往生際が悪いけど、ほんとうにそうなりたい。
結局どれだけ泣いたって、どこまで落ち込んだって何回思い知ったって、やっぱりネロは、ネロは、このネロであるかぎり、今日もファウストのことを、諦められなかった。
――昼食はらしくもなく、体調が悪いとか言ってカナリアに任せきりにしてきてしまった。体調が悪いってなんだ。誰かお人好しな子どもとかが心配して来てしまったらどうするつもりだったのか、実際既に告げた時点でカナリア本人に心臓がひっくり返りそうなほど心配されてしまったし、けれども、今に至るまで誰もネロの部屋には訪れていない。扉越しの声もかからない。平和そのもの。気楽に落ち込める。おかげさまで。神さまは今日も万物に平等に残酷。ありがとう。
「…………ネロ」
びっくりして思わず飛び起きた。軽度の酸欠状態から一気に身体を起こしたので、一瞬ぐらっときて、視界いっぱいに星が瞬いて暫く動けなくなる。
漸く目眩を収めてそろっと瞼を上げると、やっぱり部屋の中には誰もいなかった。
突然、耳許で聞こえたような気がした、ネロの名前を呼ぶ声。聞き間違いでなければあのひとの声だと思ったけれど、残念ながら聞こえたと思ったこと自体が勘違いだったようだ。そりゃそうだ。ほんとうにきつい。
……本当に、つらい。
こつん。
と、ネロがあまりにもあまりな自分の幻聴に項垂れていると、背後で小さく音がした。窓になにか当たったようだ。こつんこつん、外から小さいものがぶっつかっているような音だった。こつん、こつんこつん。……なんだろう、やたら打つな。虫とか鳥とかじゃなさそうだ。
このタイミングで人に構われたりなにか面倒に巻き込まれたりするのは途方もなく嫌なのだけれどとネロが心底思って、今日は閉めっぱなしにしているカーテンを開けるのを躊躇っていると、ぽうっと、そのカーテンが向こう側から淡く光った。
ネイビーブルーの生地の、ごく一部だけが、小さくまるっこい形に光を透かしている。ただ息を詰めて見守ることしかできぬネロの真ん前で、やがてその光は、ぽこんとカーテンの外から部屋の中へと生まれ出た。おいおい。なにやらすみれの花みたいな、淡い紫色をしている。本当にただの光の塊だ。
戸惑うネロの膝の上に、その塊はゆっくりと着地した。間近で見ると不思議と可愛く見える。ネロは指先を出して、そろっとその光を撫でてみた。途端、ぱっと白い粒状になって弾けてしまう。名残惜しく思う間もなく、光の粒は空中で集まって、離れて、また集まって離れて、そうやって、全部で数行の文字列を形成した。
『今から部屋に行く。
つまり、いわゆる看病だと思って。
もし迷惑でないのなら、鍵を開けておいて。
――ファウスト』
参ったな。
やっぱり夢だろう。そりゃそうだよなあ。
絶対に普通に正常にまともに冷淡に考えればそう。これは夢、誰もネロなんて呼んでない、ファウストはネロに構わない、ネロは猫じゃない。
それなのに。
ネロはどれだけ泣いたってどこまで落ち込んだって何回思い知ったって、今日も昨日も来週も来世もファウストのことを諦められる気がしない。ので、赤くなっているに違いない目許を無防備に空気に晒したまま、ついうっかり、夢を真に受けて、入り口の鍵を開けてしまうんだよな。
しっと

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