見かけたファウストはほんの少し、調子が悪そうだった。
だとしてもいつもなら、さもこちらの気まぐれのようにお茶を淹れてやったり、この後控えている授業の進行をさりげなく助けてやったり、そういった気遣いを駆使しているところだ。
素知らぬ顔で、押しつけがましくない労り方を。ネロは自分で、そういうのは得意だと分かってる。相手に気負わせるような、もしくは好意と取られかねないような、そういうやり方は好きじゃなかった。
その筈なのに、なぜだろう。
「ファウスト、……大丈夫?」
今、ネロはファウストの真っ正面から、ド直球な言葉を投げかけていた。
「……?」
案の定、ファウストの目は怪訝そうに揺らいでネロの方を向く。少し潤んだまなざしを見つめ返して、ネロはしかし、包み隠さずに心配を吐露したことを、後悔する気にはちっともなれなかった。
「……ネロ」
思った以上にあっさりと沈黙を破って、ファウストがネロの名前を呼んだ。
そうして思った以上にあっさりと、ネロの方へぱたんと体重を預けてきた。
ネロは不思議と、びっくりしなかった。いや、不思議でもなんでもない、きっと、彼もこういうふうにしたがってるだろうと自分は直感したからこそ、あの不自然なまでにストレートな言葉で、ファウストの方に踏み込んだのじゃなかったのか。
暑さに弱いこのひとは力なくネロの名前を呼び続けて、肩口にぐりぐりと額を押しつけてくる。
「ネロ、……ネロ……、つかれた」
癖っ毛をさらにぐしゃぐしゃにしながらぽつんと愚痴を零すから、
「そっか」
と、ネロも自然な軽さで返していた。
「いいよ、あんたをめいっぱい甘やかす準備、今なら万全なんだ」
「……ごめん。ありがとう、ネロ」
「謝ることなんかないって。あんたにこんなふうに甘えてもらえるのがさ、俺、嬉しいんだよ。ファウスト」
縋ってくる背中を両腕でぎゅーっと抱き締めたら、シャツの胸許を掴んでいた指が離れて、もぞもぞとネロの背中へ回った。
「お茶、飲む?」
「……ティザンがいい。冷たいの」
そうねだるわりに、背中にしがみつく指も、襟の内側にいつの間にか潜り込んで首の肌を嗅いでくる鼻先も、一向に離れていこうとはしない。
「……けど、もう少し、このままで……」
「……。りょーかい」
不安にさせないよう抱き竦めて、癖っ毛に頬を擦り寄せたら、ファウストはなぜか手のひらを返してネロの身体を押し退けようとした。
「人に見られたくはない。だから部屋に行く」
「……分かったよ。注文が多いねえ、俺のおひめさま」
「多くない、普通の感性」
ぽつぽつと呟いて、ネロから離れたファウストが歩き出す。ふらふらして見える。肘に掴まらせてやろうとしたら緩慢に振り払われたので、ネロは閉口して、妙に近い距離をただ横に並んで歩くのみに留めた。
「……なんでさあ、見られたくないの?」
ネロの部屋のベッドに座って、もう一度おひめさまを抱き締め直しながら、思わず訊ねていた。
「……?」
ファウストの目が怪訝そうに揺らいでこちらを向く。それではっとした。
冷静に考えたら、あのファウストが人前で弱った姿を見せるなんて、そりゃあ潔しとしない筈だ。口にしてから思い至って、ネロは落ち込んだ。けれど、ネロが思わず訊いてしまったのは一応、彼なりの理由があってのことだった。
――ファウストは、人目につく場所でネロと触れ合うことを、あまり好まない。
好まないというよりも、はっきり避けている。それこそ今日のようにきっぱりと、〝見られたくない〟〝嫌だ〟と言う。しかもそれは、今みたいに彼が弱っているときに限った話じゃないのだ。ネロにはそれが、正直に言うとずっと淋しかった。
ネロにもそういう相手がいる。親しい雰囲気で接している場面を、他者には見られたくない相手というのが。けれどもそれは、自分とそいつが親しい関係にあるという事実そのものを秘匿しておきたいがゆえの思惑であって、ネロは、ファウストと親しくなれたのだということをは、誰に隠しておきたいとも思っていない。だからこそ、誰に見られようとも、肩に触れたり、顔を寄せたり、――舌を絡ませるキス以上のことになればそれはまた別の話になってくるにせよ――ほっぺたにちゅーをしたりすることを、憚る理由なんてネロの方にはこれっぽっちもないのだ。
それなのに、ファウストの方は、いつだって隠そうとする。
それがネロはずっと淋しかったし、朧げに不安だった。だから今、ぽろっと零してしまったのだ。〝なんで、見られたくないの〟――でもそれは、今言っていいことじゃなかった。暑さを愚痴りたいのはファウストの方だった筈だし、なによりネロはさっき自分で宣言した筈だ、甘やかす準備は万全だと。どこが。
ほとほと情けなくて、せめて今すぐ冗談にしようと、頬をへにゃりと歪めて口を開いた。
「……弱ってるあんたも、すごく綺麗なのにね」
「……本当にそんな意味で言ったの?」
ファウストが疲れを隠さなくなった声で言った。ネロの下手な作り笑いは、すっと凍った。
「……ネロはそんなこと言わない。……このタイミングで僕を苛つかせるようなことは言わない。……なにか誤魔化そうとしたんだね。本当はなにを言おうとしたの。悪いけど、僕はさっきも言ったように疲れているから、今あまり面倒なことを考えられない。はっきり言え。言えないなら黙って。……その場合は後で、お互い落ち着いてから、ゆっくり話をし直そう」
ファウストの表情は本当に苛立っていた。それなのに、最後に信じられないほど柔らかい声で一言、添えてくれる。「ごめん」矢も盾も堪らず謝ったら、なぜかファウストは、そんなネロの唇に突然キスをくれた。
素朴な触れ合いに目をぱちぱちさせていると、ファウストの目が不意に、泣きそうに歪んだ。ネロは全部白状した。
悲しそうな彼を見ていられなくて。淋しかったんだということを全部、白状していた。
「……はあ。そうなの」
ファウストから返ってきたのは相当、気のなさそうな相槌だった。そんなもの打ってもらえるだけでも今は感謝の雨霰を降らせるしかないネロは、ファウストにもういちど、きちんとごめんなさいをした。
「……本当に、今言うことじゃないな、きみ。……今じゃなければ、僕ももう少しましな態度で聞けたかもしれないのに。……けど、……ふふ、なんだ、なんだろうな」
自分を叱ってくれていたファウストがやにわに吹き出したので、ネロは驚いて、落としていた視線を上げた。ファウストは疲れきった顔に、気の抜けたような淡い笑いを浮かべていた。
「はは、……なんだか嬉しくなってきた。僕との関係を隠したくないから、ほかのやつらにも見せたいのか、……はあ、そうか。なんだろう、いいな。じわじわ嬉しくなってくるな、それ」
別に見せたいとまでは思ってないのだけど、そんなことをわざわざ訂正したい気持ちも起きないほど、目の前にあるファウストの笑顔は、柔らかくて、ネロの大好きなそれだった。それに、「ネロはほんとうに僕のことだいすきなんだなあ」なんてしみじみ言われたら、うん、うん、そうなんだよ、くらいしか言うべき言葉なんてなくなってしまう。
ネロの不器用な好意を、嬉しいと言ってじわじわ笑い出してしまうファウストがいてくれることが、ネロにはなにより嬉しかった。
「ねえネロ、僕はね、隠したいわけじゃないよ。きみと仲良くなれたことがなにも後ろめたいわけはないのだし」
疲れた幽かな笑顔が、それでも霧雨を照らす薄明光線みたいに、ネロにはすごく眩しく見えた。
「……きみにしか見せたくないんだ、こんな顔。ネロに触れるとき、本当に楽しくて、力も抜けるから、鏡で見たことなんかないけれど僕はきっと、他人にはとても見せられないような顔をしてるんだろ。……ネロだってそう。きみのこんなに甘い顔、ほかの誰にも見せたくない。だって、僕を好きでいてくれている顔なんだから。僕以外の誰にも、おこぼれなんかあげないよ。
……そういう気持ちでいるだけ。……分かってくれる」
普段よりもいくらかぶっきらぼうに放たれた声は、そんな疲労の中でもこちらに対して優しくあろうとしてくれる、慕わしい彼の意思のおかげで、ひどく甘やかに掠れていた。ネロの耳に届いて、いけない艶めかしさと勘違った脳が、どくんどくんとひどいやり方で心臓を逸らせていく。
「……そう、だったんだ」
「そう。……もう、少し黙ってもいいかな」
「あ、ああ。うん。……ごめんな」
ありがとう、ファウスト。伝えた言葉に幽かに頷いてくれたように見えたファウストは、ネロの腕の中にもぞもぞと戻っていって、やがて微動だにしなくなった。
「――……ティザンを」
数分ほど、眠るような間があった後、のっそりと顔を上げるや否やファウストはそう言った。
潤んだ目にまっすぐ見つめられて、ネロは苦笑する。ファウストが夢を見るとき、ネロもまた目を閉じるようにしているけれど、今日のはなんとなく、悪い夢じゃなかったような気がした。
「はいよ。少し待っててくれる、俺のおひめさま」
「……その呼び方やめろ」
「え……〝ハニー〟の方がいい?」
「は?」
拗ねたようにネロの胸許に顔を伏せて、ぽこぽこ肩を叩いてくる。気怠げな仕草がほんとうにかわいくて、ネロは幸せに笑った。
「……っはは。ファウスト。俺の大好きで大切な、ファウスト」
「……ぅう」
めいっぱいはにかんだ様子ながらも、案外甘えてきてくれた舌を、一旦慰めて唇を離した。続きはまた後で。後でもう一度キスをしよう。ハーブの香りの冷たい、ほっとするキスを。