ネロファウ

九月八日の友達は

 部屋のドアをじっと見つめて、ファウストが小首を傾げている。
 その姿勢で固まってしまったみたいに佇んでいる姿を、ネロは廊下の先から見つけた。歩みを止めずにそちらへと近づく。なにを隠そうそのドアは、ネロの部屋のものだったので。
「――ファウスト?」
「……ネロ」
 声をかけたら、漸くファウストはこちらを向いた。足音でとっくに気が付いていたと思うのだけれど、ファウストはなにかを決めかねているみたいに、ぎりぎりまでネロに向き合おうとしなかった。
「どうかした?」
「いや、……。……」
 順当な問いを投げたら、ファウストはなぜか、用があること自体を否定した。
 たぶん、彼自身も反射的に否定形が口を衝いただけなのだ。その証拠に彼は、自分の言葉にびっくりしたみたいに目を見張って、唇を開きっぱなしで少しの間固まって、それからそこをぎゅっと噛み締めた。それと同時に逸らされた視線は、けれども泳いではいないから、たぶん隠し事を押し通す気じゃあないんだろう。〝やっちゃった〟。彼の心境は大方、そういった可愛げのあるものだろうとネロは推測する。
「……んん」
 ファウストは小さく咳払いをした。
「――今、忙しいのか?」
「いいや。まだ……」
「〝まだ〟?」
 思わずぽろっと零したら、微妙な返答にファウストが首を傾げる。……そうそう、こういうことがままあるものだから、自分も相手の失言に逐一突っ込んでいくのはよそうと、ネロは思っているのだ。
「……いや、なんでもない。さっきキッチンから爆発音が聞こえたろ、それで、ちょっと様子見に行ってただけだよ」
 なにせ昼寝中の自分が一発で覚醒した轟音だった。いくら引き籠もりといえど、自分の生活圏内で起こったあの音にファウストも無関心だった筈はないだろうと、そう勝手に思い込んで話したのだが、予想に反し、彼は今度は反対側にこてんと首を傾げた。
「……爆発? 一体なにがあったんだ」
「……いや、子どもらと賢者さんが料理しようとして、分量を間違えたらしい。怪我人はいなかったし、正しいレシピは書いて渡してきたから、もう大丈夫だと思うけど……」
 ネロがぽつぽつと説明すると、ファウストは険しくしていた眉間のしわをゆるめて、ネロの一言一言に対して、安堵したように一々頷いた。
 それから、周りの音が聞こえないほど深く眠っていたのかなとか、なにか特殊な結界を張らないといけないようなことをしていたのかなとか、一瞬でたくさん勝手な心配をしてしまったネロの顔を見て、ふっと眉を下げて、弱ったように笑った。
「実は、さっきまで出かけていたから、その爆発音とやらを聞かなかったんだ。誰も怪我をしなくてよかったね。きみの表情を見るに、キッチンの方も、見る影もなく大破したというわけではなさそうだ」
「ああ、うん……。そう、無事だったんだよ」
 その笑顔が、静かで幽かなのにどこかあどけなく見えたから、ネロは、ファウストとどうやって喋ったらよかったのか一瞬分からなくなってしまった。
 俺の好きな人だと思って喋ってもいいんだっけ。
 それともまだ、単なる同じ場所で同じ仕事のために暮らす同じ土地出身の隣人として?
「……出かけてたんだ?」
「ああ。陰気な引き籠もりでも、偶には買い物くらいするんだよ」
「買い物に行ったんだ……。いや、陰気とは言ってねえって」
 ファウストの口調はほんの少し楽しそうでもあって、それが勘違いじゃなければこんな嬉しいことはないなあと、ネロは思いながらも、少しもそもそした切り返しになってしまって、微妙に上手くいかない。ついさっき、キッチンで見た光景の所為かもしれない。子どもらとムルと賢者さんの、あんな顔の所為かもしれない、ブラッドのあの、変な言葉の所為かもしれない。
 ……そんなものたちを全部気に留めてしまう、俺自身の所為なのかも、しれない。
「――ネロ」
「ん? うん」
 ファウストが呼ぶから、意識が水底から顔を出す。「引き籠もりがなにを買ってきたのか気にならない?」彼は茫漠としたネロの顔を、まったく嫌味な曇りの一つもない表情で見つめて、そんなことを訊いてきた。
「訊いてもいいよ。今、きみになら、答えてやってもいい気分」
「……ええっと」
 ファウストがこんな、勿体つけるような、回りくどいのを楽しむような言い方をするのは、珍しい。
 ああ、俺の好きな人だって思って喋っていいやつだ、これ。
 なぜならファウストが、ネロのことを〝僕の好きな人〟って思いながら喋ってくれているから。今のこれは、そういう距離感だから。
 ネロはほっとして、ちょっとどきどきしながらファウストの言葉遊びに乗った。
「……な、なに買ったの?」
「これ」
 そう答えてファウストは、漸く、右手に持っていた物の姿を現した。ネロの部屋のドアを無言で睨んでいたときからずっと、魔法で見た目だけ隠してあった物だ。
 ……瓶。酒瓶。いや、酒だ。
「うお……」
「……ふふん」
 思わず口を衝いて出た感嘆の声を、ファウストが得意げに聞き拾って転がした。彼は左手でつついっと空に線を引く。曇った窓ガラスをアンニュイな指先が束の間のキャンバスにするように、綺麗に残った軌跡は、ふわりときらめく青や銀色のリボンになって、ネロでも滅多にお目にかからない上等な銘柄のラベルを飾り立てた。
「これがなにか分かるか、ネロ・ターナー」
「……。た、……」
「た」
「……誕生日、プレゼント。……俺への」
「そう。正解だ」
 よくできたな、とファウストは再び空中をくるくるっとなぞって、綺麗な花まる型の花火をくれた。それはきらきら光って、ネロが二度目の瞬きをする頃にはすっかり消えてしまう。
 けれど、そんなものを生み出してしまったり柄にもない言い方をしたりしてくるファウストは、ネロと同じく、こんなことには慣れていなくてひたすらまごついているだけなんだろう。そう思うと、ネロはじんわりと胸の中が擽ったくなってきて、緊張の面持ちから一転、案外素直に自分の表情が綻んでくるのを感じた。
「へええ……。普段引き籠もりの先生が俺のために、わざわざ残暑厳しい折に東の街まで足を運んでくれたなんてなああ……」
「にやにやするな。あと、分かってるだろうとは思うけれど、教え子じゃなくて僕の現状唯一の友達のためだからだ。土に埋まるほど感謝しろ」
「してまあす、大親友のファウストさん。感謝しまくってるから、お返しにつまみなんか作っちゃうもんね。なんかリクエストある?」
「僕のほしいのは、柄にもないことをしたときににやにやと茶化してきたりしない誠実な友人だ。……今のは嘘。きみがいい。……きみでいい」
「……ど、……うも。はは、……立ち話もなんだし、中入りなよ。ほんと、飲もう? ……や、いつもと同じで、大したもんは作れねえけどさ……」
「……はあ? ……ネロの作るものが大したことないことなんて一度もなかった。……いちども……。……じゃ、邪魔をする……」
「は、はい……どうぞ」
 律儀に頭を下げる――振りをして、帽子の鍔で顔色を隠すファウストに、暫くそのままこっちを見ないでと念じながら、ネロは汗をかき始めた手で自室のドアを開いた。
「――……子どもらは、パーティの準備をしていただろう」
 ネロのベッドの上に蹲るように小さく座り込んで、ファウストは言った。
 やっぱりファウストも気付いていたんだ。ネロは少し、目を閉じた。――気付くどころか、シノやヒースが、パーティにファウストを誘ったかもしれない。いや、あいつらや賢者さんの先日の動きを見るに、ネロの好きなものやしてほしいことについての心当たりを訪ねて、ファウストにも話を聞きに行っただろうと考えるのが妥当だった。
「はは……。どうやらそうみたいだな」
 ネロがぎこちなく苦笑すると、ファウストはゆっくりと瞬きをした。
「さっきはなにかを爆発させたようだけれど、まともな夕飯も、いくらかは出来上がっている筈だ。今日、終日きみがキッチンを出禁になっていたということは、カナリアやシャイロックにも、なにか準備していたことがあるのだろうから」
「出禁って言うの、よさねえ? なんか悲しい響きを帯びる……」
 ネロが重箱の隅を突っついて眉を下げると、ファウストはごめんと言ってやわく笑ってくれた。
「……ともかく、これから夕飯を振る舞われるのなら、きみは今は、あまり食べない方がいいだろう。僕はパーティに混ざる気はないから、一足先にこれを届けに来たんだ」
 そう言ってファウストが、膝の上に抱えたままの酒瓶をゆらゆら揺らす。リボンが、ふわふわ揺れる。ネロはぎゅっと唇を噛み締めて、ともすればずっとそこへ囚われてしまいそうになる視線を引き剥がした。
 作り置きのドライフルーツとか、ナッツとか。あとはなるべく切るだけでできるやつ。ピンチョスとかカナッペとか。チーズもオリーブもあるけれど。
 ……時間はあんまり、ないかもしれない。ネロが〝まだ〟忙しくはないうちに、できること。ファウストと、誕生日にいいお酒を飲むこと。大切な時間にしたい。
 ファウストといるということそのものが、ネロにとって紛れもなく、ものすごく大切なものだから。

 ――ネロー!
 賑やかな声が二つ重なって、扉の向こうから部屋の主を呼んだ。
「ネロー! 今度こそ、ネロに食べてほしいものがあるんですー!」
「キッチンは爆発しなかったけどー! 今、食堂に来れば、もっとすごいもの見せてあげられる!」
 賢者さんとムルが、弾む声で口々にネロを誘う。
 漏れた息は、知らず苦笑みたいになった。それは咎められることかもしれないと思ったけれど、ちらっと視線を合わせたファウストは、こちらの戸惑いをそっと肯定するように、ネロと同じ温度で微笑み返してくれていた。
 はいよお、ちょっと待っててくれるか。ネロはドア越しに声を投げ返す。ファウストは部屋に戻って休むだろう。本当に夕飯を食べに来ない気なら、作り置きの保存食なんかも纏めて、あるだけ包んで持たせてやりたいと思った。
 そう自然な流れで腰を浮かせたら、ファウストがそっと、中身の残り少なくなった皿を自分の方へと引き寄せた。ぴたりと目が合う。ネロが瞬きを送るよりも先に、ファウストがその意図に答えて、口を開いた。
「ここは片付けておくから、気にせず行ってこい。……ひょっとしたらこの瓶の中身も、きみが戻る頃にはすっかり片付いてしまっているかもしれないけれど」
「……ファウスト、」
「いいから」
 明らかに冗談めかした犯行予告を、咎めたわけなんかじゃ勿論ない。それでもファウストの声は、まるでなにかの言い訳をさせる隙を案ずるかのように、はっきりと、ネロの言葉を遮った。
 ファウストがネロの腕を引く。強引じゃない、穏やかに促すような力に誘われて、そろそろと立ち上がる。ファウストがテーブルを回り込んでネロの隣に立つ。向き合う。
 穏やかなまなざし。

「――いってらっしゃい、今日の主役さん」

 ファウストが屈託ない、気安く茶化すような笑顔で、ネロの頭に手を伸ばしてきた。髪の毛を、優しい指先で、梳いては撫でて整えてくれる。
 じわっと、胸が熱く締めつけられる。さっき飲んだ酒が、今漸く回ってきたわけじゃないことくらいは、もうとっくにネロは知っていた。
「……いってきます。……ありがとな、ファウスト」
「……こちらこそ。いつもありがとう、ネロ」
 楽しんでおいでねと、ファウストが甘い目で囁いてくれる。
 掠めるような一瞬のキスの後、ネロはしあわせでぐちゃぐちゃになった頭の中から、微妙にとち狂った照れ隠しを引っ張り出してきて、ファウストの腕の中へぐいぐいと押しつけた。
「……気が向いたら、あんたも顔出してよ。子どもら、頑張ってたからさ、見てやってほしいな。それにあんた、夕飯だってまだなんだろ」
 この期に及んで、こんなことをつらつら言うのは、往生際が悪いと眉を顰められても仕方のないことかもしれない。実際、ネロは怖がっているわけじゃなくて、ただ少しだけ、慣れないことにまごついているだけなのに。
 けれどもファウストはそんなネロの目を、嘲笑うことはなく、呆れて突き放すこともなく、ただネロと同じだけの温度で、寄り添うように見つめ返してくれた。
 そうしてただほんの少し愉快そうに、悪戯を思いついた友達みたいに、くすくすと声を潜めて、優しい顔で笑ったのだ。
「あの子たちはきみのために頑張ったのだから、ネロがしっかり見てきてあげれば、それで充分なんだよ。
 でも、まあ、気が向いたら……。
 ――きみがみなに囲まれた輪の真ん中で、どんな締まりのない顔をしてるのかなって、見物しに行くくらいは、してもいいかもしれないね?」

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