どきどきした。
――緊張した!
ネロのいなくなったネロの部屋で、ファウストはふーっと息を吐き出した。
あいつは、自分の誕生日を祝われるなんていうのは、苦手なのだろうとなんとなく思っていた。ある日ファウストの部屋にやって来た賢者の言葉で、その〝なんとなく〟は裏の取れた事実へと変わった。
ネロが好きなものを教えてくれないんです。
賢者はそう言った。
ネロはしてほしいことも教えてくれない!
賢者と一緒に来たムルもそう付け足した。
誕生日にしてほしいことや欲しいものはなにか、そう訊かれて、ネロは弱ったように眉を下げるとはっきりこう言ったのだという。
「気にしないでくれるのがいちばんありがたいな」
それはそうだ。……それは、そうだ。ファウストはしょんぼりした賢者の回想を聞きながら、正直、胸中で何度もそう頷いていた。
彼は誕生日を祝われたがるようなやつじゃないだろう。祝われて素直に受け取れるような、生きやすいたちではなかったろう。
触れないでおいてやるのも一つの正しい選択で、実際その選択肢を採るのは、ネロの心をいちばん穏やかなまま置いておいてやれる方法だろうとファウストは思った。
それなのになぜだろう。
「だから、ネロを知ってる人にネロのこと聞いて回ってる! ネロはなにが好き? なにをされて喜ぶ? ネロを嬉しいって思わせる手がかりが欲しい!」
「怒られるかもしれなくても、困らせるかもしれなくても……それでも踏み出してみなきゃ距離だって縮まらないかもって、ムルに言われて思ったんです。ネロにありがとうって伝えたい。大好きなんですよっていう気持ちも。やっぱり渡したいんです。
投げつけるんじゃなくて、ちゃんと手渡せるような距離に、踏み出したい」
……そうか。あいつの誕生日なのか。
今のファウストはなぜか、そんな二人の言葉にもまた、胸中で自然と何度も頷いているのだった。
さりとて。
やっぱりネロは、自分の誕生日を盛大に祝われたがったりはしないだろう。
素直に受け取れないだろう。受け取れないそんな自分に胸苦しさをも覚えてしまうのだろう。
ひょっとしたら、あんなふうにまっすぐな賢者や子どもらの真心ならば、ネロの心の在り処を優しく揺すぶることができるのかもしれなく、また、ネロもそれを受け容れることが案外できるのかもしれないが。そう、ちょうどネロの料理がファウストの引き籠もった心に対してそうしてくれて、応えたいと思ったファウストが自ら重たい扉を開いたように。
……そうか、ネロの誕生日なのか。
静かになった一人の部屋で、ファウストはとりとめもなく呟いた。
ネロは祝われたがらないだろう。つまりは、主役になるのを避けたがるだろう。面倒くさがりで、大儀がり。繊細だから、一つの単純なものごとを、一目見ただけで複雑に分解して捉えてしまうのだ。優しいから、放っておくとどこまでも人に寄り添いすぎて、しまいには疲れ果ててしまうのだ。そんな難儀なたちをしていれば、すべてのことが面倒になるのも大儀になるのも当然だ。
ネロが心底から人を嫌いなのだとは、今のファウストには到底思われない。
魔法舎の面々からの感謝と親愛を、ネロは結局は受け取るだろうと思った。ファウストが、東の魔法使いたちや、ほかの仲間たちに対して、そうしたいと願うようになったように。
けれど、かなしいかな、人に染みついた思考の癖や、生まれ持っての性質というものは、なかなか一朝一夕には変わらないものだ。慣れないことを経験すれば、身体も心も疲れてしまう。それがたとえ、楽しいことであっても、嬉しいことであっても、いい変化であっても幸せな転機であったとしても。
どうしてもきっと、疲れてしまう。
特に、寝ればすべて忘れてしまうというような豪胆な気質とは、真逆の繊細さで生きるネロは。
「――そうだな」
ネロの、誕生日。
ファウストはもう一度独りごちて、決めた。
それならば、自分は。
〝あんたといるとほっとする〟。
〝ファウストの隣は居心地がいいな〟。
誰よりも繊細で優しいネロがそんなふうに言ってくれる、彼の友達としての自分に、できることは。
――……かくかくしかじかそういう経緯の許、今日ファウストはネロの部屋を訪れたのだった。
本当に緊張した。なにせネロに今更、〝今更こんなことを言わせるの〟みたいな顔でもされて悲しまれた日には、自分が耐えられないと思っていた。
努めて自然に振る舞おうとしたが、上手くいった気もしなかった。人様の部屋のドアを睨んで微動だにしなかった様も相当近寄り難かったろうが、ネロが嫌そうな素振りも見せず声をかけてくれてからは、さらにおかしな態度でらしくもないことばかり口走ってしまった気がする。思い返すと消えたくなって、けれど、さっきムルと賢者に呼ばれて部屋を出て行った彼は最終的にはそれなりに穏やかな顔をしてくれていたなあ、とより新しい方の記憶を思い出せば、己のちっぽけな恥なんてどうでもいい、ネロが笑ってくれてよかったと、いとも簡単にファウストの心は溶けてしまった。
……輪の中心が、苦手なネロだ。
主役になるのに慣れていないネロだ。
彼を心の底から慕う魔法舎のみなからの言祝ぎを、心の底ではとっくにみなを愛している彼は、ぎこちなかろうが不器用であろうが、きっとその手で大切に受け取ってやることだろう。
それは嬉しいこと。ネロにとっても、たぶん本当に幸せなこと。
それでも、それは、彼にとって慣れないことであるには変わりないから。
どんなに楽しい時間だったとしても、どれだけ温かい場所だったとしても、彼はその輪を抜け出たとき、ふっと、疲れている自分を意識してしまうだろうから。
――〝いってらっしゃい〟と、ファウストは言った。
――〝いってきます〟と、ネロは答えた。
それならば。
次にファウストが聞くべきはネロの〝ただいま〟で、それに答えてファウストが言うべきはネロへの〝おかえり〟であるに違いない。
ファウストといるとほっとする。あんたは大人で優しくて、付き合いやすい、友達だ。
そんなのこちらの台詞だと、与えられる言葉すべてに言い返してやりたくなるようなファウストの大切な相手は、もう少し夜が更けた頃、取りつく子どもらに手を振って、どんなに締まりのない顔をしてこの部屋に帰って来ることだろう。見物しに行ってなんてやらない。それを見守るのは、ファウストの役目じゃない。
ファウストの役割は。ネロにおかえりを言って、それからただいまを聞いて、ひょっとするともう一度、彼と静かに飲み直すこと。疲れてしまっているだろうネロの、にがい気持ちや後ろめたさや、ぶり返した不安や弱々しい懺悔やを、そうだな、それはそうだなって、彼と同じだけの陰気な温度で、否定せずに聞き流してやること。
主役のネロじゃない、輪の中心じゃない、二人きりの空間でただファウストの隣にいるだけのネロと。いつもどおりの、うんと愉快ではないけれど、惨めではまったくない、静かなほかにはなんでもない夜を、過ごす。
それが、ファウストとネロに相応しいやり方。
二人だけの、かけがえのない、やり方。