――〝恋をしてらっしゃるのですね〟。
「…………は?」
最初にシャイロックからそう言われたとき、ネロは腹の底から驚いたものだ。
本気でわけがわからなかった。自分はただ、最近になって思いがけずできた友達と、慣れないことを手探りながらも過ごす時間は、随分楽しいものだなあと思って、そんな話をしていただけなのだ。今夜は二人っきりのバーで、ほかならぬシャイロックが聞いてくれるって言うから。
この男は人が悪いところもあるけれど、いけ好かないということは決してなくて、切実な話には親身に耳を傾けてくれるし、ネロが大切にしたいことには手を触れようとせずそっとしておいてくれる。そういうところを信用していたから、優しいカクテルに誘われるまま身を委ねて、気持ちよく口を開いていたのに。
少し警戒する目で、相手の顔を盗み見た。けれどもそこに乗っている表情は、ネロの当初の思惑に違わない、裏のない優しいものだった。そうするとネロは、却って戸惑ってしまう。ますますわけがわからなくなってしまった。
ネロは恋なんか、したことがない。
あったのかもしれないけれど、そのなけなしの心当たりであるところの人間関係や、感情や、情動や、思い出は、とても今のファウストとの関係とは似ても似つかなくて、両者に同じ名前を付けて並べて置きたいとは、ネロには少しも思えなかった。
「それでは過去の、恋であった〝かもしれない〟思い出の方が、〝恋〟ではなかったのかもしれません」
シャイロックが、やはり意地悪ではない、優しい声音でそう言った。けれどもネロには腑に落ちる筈もなく、寧ろ驚いてしきりに目をぱちぱちさせてしまう。
「……だとしても、いや、やっぱりな」
ネロはもごもごと食い下がった。聞き上手なシャイロックは、自分の言葉が頑なに否定されても嫌な顔一つしない。適当にあしらうような素振りすら見せないから、ネロも自分には珍しく、繰り返される問いを投げ出さずに、何度でも自分の言葉を探して返すことができた。
「だって、……恋って、この世にいっぱいあるんだろ? なんというか、俺にとって、ファウストって特別だから、……だから、ほかにいっぱいあるものと同じ名前で呼ぶのって、ちょっと」
己の中でもやもやと蟠っている気持ちをなんとか形にしてみたが、微妙にしっくりこない。言い終わりながら自分で小首を傾げてしまう。
一方、カウンターの向こうのシャイロックは、きっと物を知らない子どもじみているだろう今のネロとはまったく別種のニュアンスでもって、ゆうるりと優雅に首を傾けた。
「あなたは先ほど、ファウストのことを〝友達〟とおっしゃいましたけれど……〝友達〟という呼び名もまた、この世の中に、人と人の組み合わせの数だけ存在するものでは?」
「……あ」
ネロは気が付いた。しっくりこないのはその所為だったのか。
「で、でも……、…………」
でも。じゃあ。ネロはさらに食い下がりながら、なぜか頭が熱くなるのを感じていた。焦っている。なんで自分は、こんなに取り乱しているのだろう。
困惑するネロを見て、シャイロックはふっと、まるでなにか小さいものを慈しむような吐息で微笑んだ。
「ふふ……。〝友達〟という言葉はありふれてはいますが、その形は千差万別。この世に実在するどの関係性をとってみても、一つとして同じものはありません。〝恋〟だって、同じこと。その形は人の想いの数だけ存在し、無限に多様です。あなた一人の中ででさえも、一貫したものではないかもしれません。あなたが過去のある相手に向けた想いも、あなたが今のファウストと共有している時間も、形がまったく異なろうと、〝恋〟という同じ文字で言い表すことは可能なのでは?」
「……」
形がまったく違うものたちなら、なんでわざわざ同じ文字で括る必要があるのだろう。
そう思ったけれど、声にはならなかった。情緒を愉しむシャイロックが、なにも必要性の話をしているのじゃないことくらいは、今のネロの茫然とする頭でも分かったから。
ファウストと仲良くなれたことが嬉しかった。ただそれだけだった。今日、シャイロックに聞いてほしかったのも、そのことだけだった。
この歳になって、こんなふうに気を許せる相手が新たにできたこと。その驚きと、喜び。この歳になって、そんなことで一々驚いたり喜んだりしてしまう自分の、生来の人付き合いの下手さ。その気恥ずかしさ。
最近のネロの胸の中は、そういうものでいっぱいになってしまっていたから、優しい誰かに、適度に笑いながら聞いてほしかっただけなんだ。
友達なんていなかったから、友達って呼んでみたかった。今やっと出逢えた、こんなにも素敵な相手のことを。
けれどもよく考えてみたら、ネロには恋人だっていたことがない。けれどもいなかったからといって、そのがらんどうの中にファウストという存在を押し込めてしまいたいなんてことは、少しも思いつきはしなかった。
……果たしてそれは、いけないことなんだろうか。
漸く出逢えた、こんなにも大切な人のことは、恋人って呼びたがるのが、筋なんだろうか。
……そう思わなきゃ、薄情なのだろうか。
「……失礼。今のはあくまでも、私の考え方です」
ネロがよほど変な顔をしていたのだろうか。シャイロックがそっと、助け舟を漕ぎ出だす静かさで切り出した。
「ここでの私とあなたは〝店主とお客様〟ですが、ネロと過ごすこの時間を、私はほかのどの〝お客様〟と過ごすのとも違う質感で捉えています。ここに座っているのがファウストだったならば、ファウストとの。カインとならば、カインとの。クロエならば、クロエとだけの。それぞれの質感で接しながら、私はあなた方を〝お客様〟という同じ名で呼ぶこともできる。それと同じようなものだと考えていただければ」
シャイロックの語尾は柔らかい。気を遣わせてしまったな、と思ってから、いいや違うだろとネロは一人首を振った。気を遣わせたんじゃない、気遣ってくれたのだ。そう思うようにしたら、ごめんよりもありがとうの気持ちが強くなって、自然と肩の力がゆるむ。「ちょっと考えてみるよ」と当たり障りのない台詞を返したら、「あまり気になさらないで」とシャイロックは眉を下げた。
「あなたが、あまり幸せそうになさるものだから、揶揄い混じりに祝福するつもりだったんです。というのも、私の知っている〝恋〟と、あなたがあなたの〝友達〟を想う心とは、とても似ているように見えましたから」
改めてそう言われると、ネロは再三、新鮮に驚いてしまった。するとまた、あのよく分からない焦燥感が首をもたげてくるけれど、ネロがそれに囚われて落ち着かなくなってしまう前に、シャイロックはネロの目を見つめて、はっきりと首を横に振った。
「あなたが恋でないとおっしゃるのなら、それこそが正しいことですよ。あなたとファウストが幸せであれるような名前こそが、あなたたちにとっての正解で、間違いありません。――素敵な〝ご友人方〟二人に、祝福を。もう一度、仕切り直させていただけますか」
シャイロックがぱちんと指を鳴らすと、青と紫色のリキュールが躍って、透明な泡が大きく弾けた。
きらめく小さな星が降り注ぐ中、ちゃっかり自分のグラスを手にしたシャイロックが、にっこりと微笑む。そんな光景を見ていると、ネロの身体からも少しずつ力が抜けて、沈みがちだった表情にも、ふわっと知らず笑みが浮かんだ。
乾杯。視線だけでグラスを鳴らす。
そうして気分よく乗せられたネロは、それからも暫く、グラスを傾けながら大好きな〝友達〟の話をした。シャイロックはもう決して〝恋〟という言葉を口にしなかった。ただ時折、茶化すように、慈しむように、唆すように、愉しそうに、笑いながらネロの話を聞いてくれていた。
ネロは、胸にいっぱいになった幸せというものは、吐き出したら軽くなるものなんだと思っていた。けれどそれは間違いだった。とりとめのない話を聞いてくれる相手がいるという幸福感も相俟って、あの擽ったい感覚たちは、ネロからちっとも離れていくことなく、話せども話せどもすべてネロの内に返ってきた。
そうして膨らみ続けた質量のまま、それらはゆっくりと、ネロの内臓に、骨に、皮膚に染みついてゆく。
不思議だなあと、ぼんやり思った。
ネロのちっぽけな身体の一体どこに、こんな大きな幸福を余すことなく収めておける空洞があったんだろう。
バーの一件からこっち、どういうわけだか、腑に落ちないことは立て続けに起こった。
個々のきっかけはなんでもないことだ。ただ、文脈もばらばらなあらゆる会話の中で、ネロがふとファウストの名前を口にしただけ。そうするとその度にみながみな、しまいには同じような言葉をネロに投げかけてくるのだった。
「あなたは素敵な恋をしているんだね」
とラスティカ。
「あっはは、ネロも惚気たりするんだなあ!」
とカイン。
「若い子の恋バナって、なんかきゅんきゅんするねえ。また聞かせてね」
とフィガロ。きゅんきゅんってなんだ。
「おまえのそんな顔を拝める日が来るとはな……。いや、機嫌よく笑ってること自体は昔もあったけどよ、今のこれは、なんつーか……骨抜きっつーか、デレデレしてるっつーか……おい、悪い意味じゃねえぞ、胡椒をしまえ!」
と果てにはブラッドリーにまでそんなことを言われて、ネロは愈々鼻白んだ。
すっかり天と地とがひっくり返ってしまったような困惑。その只中に、たった一人放り込まれたような心地だった。
自分とファウストの仲が第三者からどんなふうに見られているかなんて、心配性な賢者に対してを除けば一向に気にかけたことなどなかったが、それにしたって、あまりにも思いがけない印象を持たれていたものだ。
あの夜、シャイロックが丁寧なフォローをしてくれたおかげで、ネロはもう、自分のこの想いは恋心でなくてはいけないんじゃないかとか、こんなに特別な人のことを友達と呼ぶのは間違っているのかもしれないだとか、そんな益体のない強迫観念に頭を悩ませることはなかった。だから、ネロとファウストの関係を恋人だと勘違う彼らの無邪気さを、とりたてて責めたいような気持ちなのでもなかった。
ただ、ただ、ネロは戸惑っていた。
そんな折、ファウストと二人きりで飲む機会を得た。得たというか、ネロから誘ったのだ。
先日、自分の誕生日に晩酌に誘ってもらえたことが本当に嬉しかったから、あの日からネロは、ファウストとの絆にさらに自信をつけてしまっていた。
ネロが求めてはいたけれど強いて口にすることはできなかったものを、ファウストは推測して、真っ向から贈ってくれた。人嫌いな彼のことだから、ネロにとっての正解を推測できたとしても、敢えてその中身を実行してくれる義理なんてものはなかったにもかかわらず。それに、彼がもしも自分が嫌なのを押してまで気を遣ってくれていたならば、ネロはそれを察してしまって、誕生日の夜をあんなふうに心穏やかに過ごすことはできなかっただろう。
だから、ファウストがネロの人知れぬ希望を実際に叶えてくれたということは、ファウストの方も、ネロとそうやって過ごすことが別に苦ではないよと、伝えてくれたのと同義だったのだ。
自分の望みが受け容れられていること、彼の望みも自分のそれと合致していること、それらを確かめることのできたあの夜が、ネロにとっては本当に嬉しい転機の一つだったから、だから今日もこうして、とりたてて用はないのに自然にファウストを誘うことができた。ファウストも二つ返事で了承してくれて、今はネロの部屋、ネロの隣で、とても柔らかな表情を浮かべてくれている。
気持ちいいなあ、とネロは思った。アルコールも手伝って身体がほぐれ、気持ちがふわふわとしてくる。シャイロックとカウンターを挟んで向かい合っているときの心地とは違うけれど、ファウストが隣にいてくれることは、それと通じるような、そしてもっと気安い安心感を、自分に与えてくれた。
だからネロは、口を開いていた。ここ数日、悩んでいたわけではないけれど、微妙に腑に落ちなかったことについて。自分一人で抱え込んでいたもやもやとした戸惑いを、もう一人の当事者であるところの彼と共有して、なんだそれ、変なのって、小さく笑い飛ばしてしまいたいと思ったのだ。
「俺が恋をしてるってさ、みんな、言うんだよ」
「…………は?」
けれども、答えたファウストの声は、それまでよりも少し硬くなっていた。
しまった、と思った。ゆるく火照っていた皮膚が、すっと冷えた。
心地のよかったこの空間を、自ら壊してしまった予感に狼狽えた。自分にとって居心地のいい空気を今更乱すのも、気をゆるめてくれている彼に今更不快な思いをさせるのも、心底御免だった。
ネロは焦った。なにがファウストの機嫌を損ねてしまったのかは分からない。けれど絶対に、今のじゃ言葉は足りなかった筈なのだ。ネロは慌てて言葉を探しながら、どうして自分がこんな台詞を口にするに至ったのかという経緯を、必死に説明した。
シャイロックとのバーでの出来事について。それから数週間、会話をする者みなから返ってくる、その奇妙な言葉について。
「――誰も彼も示し合わせたみたいに、そんなふうに言うんだけどさ。なんだろ、なんか、……突拍子もなさすぎて笑っちまうっていうか、あんまりにも認識のずれがあって戸惑うっていうか……な。……はは……」
事実の述懐は、わりあいすらすらと舌に乗った。けれどもそれらについて自分がどう感じたのか、胸の内をつまびらかにしようとすると、途端に仔細が掴めなくなって、喉がつっかえてしまう。ぐちゃぐちゃにこんがらがる思考の糸を、懸命にほどきながら、ネロはファウストの顔を碌に見ることができなくなっていた。
必死だったのだ。ファウストはきっと話せば理解しようとしてくれるから、だからネロは彼に対して、いつだって言葉を尽くしたかった。ファウストに遮られないのをいいことに、ネロは解きほぐそうとする指の辿り着くまま、自分の心を手当たり次第に言葉に鋳直し続けた。
「恋、なんていうさ。そういう一般的な、単語にしちまえるような、型に嵌め込んじまえるような、どこにでもある誰にでも当て嵌まるものじゃなくってさ。
あんたにだから、――ファウストにだから、俺はこんなふうに感じるんで、だから誰にでもこんなふうに思えるんじゃなくって、あんたがすごいんであって、ファウストはこんなふうに言われるの重たがるかもしれないけど……でも少なくとも、俺から見たら、あんたはすごいよ。すごく優しくて、態度が大人で、しっかりしてて、自制もできて自立もしてて、けどちょっと気を許してくれたらこっちの負担にならない程度に甘えたり頼ったりもしてくれて、ありがとうもごめんもおはようもおやすみもしっかり声に出して毎回伝えてくれるし、あんたはすごい、なかなかできることじゃないよ。隣にいるやつをすごく居心地よくさせてくれる。だから、一緒にいれば誰でもこんなふうに楽しかったとは思わないよ、俺は、こんなファウストとだからこそ、こんなにも、……――」
想いが口を衝くまま捲し立てていたネロは、ふと気付いて口を噤んだ。話しざま、漸くちらっと窺うことのできたファウストの表情に、少しの違和感を覚えたからだ。
ファウストは、こちらが話す意思を見せているときには、大抵、変に遮るようなことはせず静かに聞いていてくれる。今もまたそうしてくれていたのだけれど、なんだかいつもよりも、微妙に目が泳いでいて、落ち着かないように見えた。
おまけに少し、顔が赤いのだ。これは、ネロにはやや見覚えのある表情だった。そう、それはまるで、シノやヒースに大切にされて照れているときみたいな、あの――。
「……それは、きみの目で見るから、そんなふうに映るだけなんじゃないの」
「はあ? なに、そんなこと……」
ないよ、と反射的に返しかけた言葉を、思わず飲み込んだ。
ぽそりと呟いたきり口を噤んだファウストが、先ほどまでの比じゃないくらいに、顔を真っ赤に染め上げたからだ。思いがけない表情を目の当たりにして、ネロは再び狼狽えた。強がるふうではなく、寧ろ弱ったように眉を下げた表情は、ネロにとって、まったく見覚えのないファウストの一面だった。
(俺の目で、……見るから? ファウストがこんなに優しいのは、隣にいてこんなに居心地がいいのは、俺の目線だから……ほかのやつじゃなくて?)
先の台詞をどうにか噛み砕こうとしてみるけれど、不思議なくらいに上手くいかない。ファウストの言葉も、見覚えのない表情も、ぜんぜん意味がわからない。
分からないなりに、ネロはだんだんと腹が立ってきた。
ファウストの態度は到底、そのまま曖昧に笑って流してやれるようなものじゃなかった。いや、いつものネロだったなら、あるいはそうしてやれたのかもしれない。けれど今宵のネロはなぜだか、そんな大人な気分にはちっともなれなかったのだ。
ネロはファウストが好きだから。だから、ほかの誰も聞いちゃいないこんな夜にくらい、ささやかな褒め言葉を捻くれずに受け取ってほしかった。そうだ、偶にはそうしてくれたっていいのに。ネロはつまり、拗ねていた。思いのほか酔っていたのかもしれない。子どもみたいに口を尖らせて、半ばファウストを詰るみたいにして、滔々と管を巻き出すくらいには。
「……俺以外の目には、そんなふうに見えるわけないって言いてえの? そんなことないだろ。だってファウストは、ちゃんとほかのやつにも優しい……こんなに気を許してくれるのは限られたやつにだけかもしれないけど、それでもあんたは、どう見たってもう性根からいいやつで、けど眩しくも重たくもなくて、だから俺はあんたといるのが楽しくて、こんな気持ちにさせてくれるあんたのことが大好きで……それなのに、それは全部、俺の色眼鏡の所為だって言うのかよ。そりゃ、あんたといて息が詰まるようなことがないのも、あんたと波長が合うような気がして嬉しいのも、今までに出会ったどんなやつといるのとも違う安らぎをあんたといるときに感じてるのも、俺が俺だからで、全部俺の勝手ではあるけどさ。でも、俺が俺から見たファウストしか好きになれないのって当たり前だし、俺とこんなふうな関係でいてくれるファウストのことこそが好きだっていうのは確かに俺だけの特別だけど、だから俺はほかの誰とも絶対に違うやり方でファウストを好きなんだが、それとあんた自身が素敵なやつかどうかっていうのとはまったく別の話でさ、たとえあんた自身にとってのあんたがどれだけ醜いやつだったとしても、もしも仮に俺以外のやつらから見たあんたがすごくひどいやつだなんてことがあるんだとしても、それは俺が俺にとってのファウストを好きであることには微塵も影響しないわけで、俺がファウストを好きってことが揺らぐ理由には少しもならなくて、俺はだから、……あ、んたの、ことが、…………だから、えっと」
ぶわ、と顔が熱くなる。
分かってしまった。
ファウストの言わんとしたことが、ネロは今漸く分かってしまった。
「……っち、ちが、……き、客観的な話をしてるんであって、俺の主観の話ではなくて、客観的に見て、あんたはすごいよって話で、俺の主観で、あんたが好きって話じゃ……いやっ、いや、好きなんだけどっ、すきっ、……な、んだけど、……、…………」
先ほどまでの気炎はどこへやら、しどろもどろに言い訳するネロの声は、へろへろと上擦って震えて、しまいには萎んで消え入った。
目の前の彼はすっかり俯いてしまっている。幽かに覗く耳の縁までもが、真っ赤に火照っているように見えてくる。自分の顔色もそれと大差ないんだろうという気はしている。やってしまった。やってしまった。
ネロはすっかり頭を抱えてしまった。今、言い連ねた言葉は一つも嘘なんかじゃなかったけれど、しかしそれが、ネロ個人がファウストをいかに好きかいかようにして好きかということをひたすらに並べ立てるだけのワンマンショーになってしまっていたということに、なんとネロは今の今までまったく気付いていなかったのだ。そりゃあ、さしものファウストもただただ照れる。気まずくもなる。ネロだってもしも仮に彼から同じことをされたとしたら、上がりきった自分の体温で溶けてこの世から消え失せていたと思う。
おもたくてごめん、と言いかけた声は、しかし途切れた。ネロの言葉を遮るように、ぎゅっと左の袖が掴まれたからだ。
びくんと肩が跳ね上がる。大袈裟なくらいに震えてしまった身体の反応が、きっと、自分の心が間違いなく重たいことのなによりの証左だ。怖れという感情を思い出して強張るネロの手のひらに、そっと、優しい熱が滲んだ。……馴染んだ。
おもたくなんかないよ、とファウストが消え入りそうな声で呟いた。俯いた表情を隠す波打つ髪の間から、確かに赤くなった、柔らかそうな耳が覗いていた。
「……きみだけじゃないから。……僕も……、僕だって、きみのことが同じように見えてるんだから」
……一瞬、理解が追いつかなかった。柔らかそうな桃色の耳を、美味しそうだと思ってしまった自分の思考に混乱して、聴覚が遅れた。
茫然としてファウストの頭を見つめる。垂れた前髪の奥で、ぱしんと睫毛が瞬いたのが分かった。
きらりと潤んだ紫色の光と目が合う。その瞬間、ネロの心臓はどくんと跳ねて、衝撃で全身がぶるぶると激しく打ち震えた。
――こんな気持ちは知らない。恋と同じくらいに知らない。けれど、これは恋じゃない。そんな、どこにでもありふれた、そのくせ守れない約束がつきものの、自分勝手で激しいばかりの、詩歌の定型や辞書の一項目や世間の通過儀礼やなんかじゃない。
それなのにどうして。
どうして、こんなに身体中が熱くて、頭がぼうっとしてぐちゃぐちゃで、そのくせ胸の辺りは擽ったいくらいに跳ね回って、ぴょんぴょん飛んでってしまいそうなんだろう。
「きみといると、……優しくて居心地がよくて温かくて安心して、けれど不意にどきどきしたりもする。もっとずっと一緒にいたくて、でも傍にいなくたってなにも疑い合わずにいられる。互いの気遣いをよく理解していて、それでも少し甘え合えるのが嬉しい。呼吸がすっと楽になるようで、透明な水の中へ穏やかに溺れてしまうみたい。心臓がぎゅうっと締めつけられて、熱くて苦しくてじんじん痺れて、わけがわからなくなるくらいに、自分っていう存在が変になってしまいそうなくらいに――」
好きで。大好きで。
「僕は、……こんな気持ちは初めてだったから。だから、ひょっとしたらこれこそが、僕が今までついぞ経験したことのない、〝恋〟ってやつなのかもしれないなって、思ってたよ」
照れくさそうに……ばつが悪そうに肩を竦めて小さく笑ったファウストの姿に、ネロは零れそうなほど目を見開いていた。
ひっくり返っていた天地の底がさあっと晴れて、今までに見たこともないような澄んだ青色に染まってゆくのを目の当たりにしたような気分だった。ファウストの笑顔はあまりにも気さくで、少しあどけなくて、驚くほど穏やかで、和やかだった。
それでネロは漸く気が付いた。
シャイロックがあの夜、〝無限に多様〟という言葉でもって言わんとした本当の意味に。
「けれど、きみやシャイロックがそう言うのなら……こんな気持ちでも、とりたてて恋と呼ぶべき理由はないのかな」
奇しくも、ファウストが明るい苦笑混じりにそう言ったまさにそのとき、こんな穏やかな想いまでをもそうと呼べるのならば、自分はこれを〝恋〟と呼んでもいいと、ネロはそう思ってしまった。
「……きみにだけなんだ、ネロ。この気持ちの呼び名なんてなんでもいいし、名づける必要すらないよ。だってこれは、僕がきみのことを知るまではついぞ知らなかった感情で、きみと同じ時間を過ごす中で初めて抱いた感覚なんだから。強いて言うならそれは、〝僕とネロ〟と名づけるのがいちばん理に適っているね。もしくは、僕が今まで知らなかったこと全部に、〝ネロ〟って名前を付けてしまうのもいいかもしれないな」
ファウストの語り口は、少しおどけたふうだった。それは彼が、人を気安く皮肉るときにも使う声。けれどもまた、人を丁寧に、気遣うときにも使う声。正体の分からないネロの気持ちを傷つけないように、また、ファウスト自身の自尊心を柔らかく守り抜くために、敢えてそんなふうに冗談めかすファウストの優しさが、ネロはずっと好きだったけれど、たった今、愛おしくて仕方がなくなってしまった。
――ほかでもないファウストが、ネロと過ごす穏やかな時間をこそ〝恋〟という名で呼ぼうとしてくれていたと言うのなら。ネロと二人で見つける新しい感情全部に〝恋〟という名を付けても構わないと、そんなふうに思ってくれていたと言うのなら。
こんなに優しくて愛しい気持ちを、恋と呼べるような世界があるのだとしたら。
そんな優しい世界をファウストが持っていてくれると言うのなら、ネロはそこに住みたいと、今、どうしようもなく思ってしまった。
「……俺も。俺もそう思う。恋じゃなくていい。あんたと出会ってから知ったものは全部、俺にとって、特別で、唯一だよ」
左手に触れている優しい体温を握り返して、どうにか、そう伝えた。
ファウストの頬が、ふやっとゆるんだ。あの、気遣いを張り巡らした、おどけるような笑みじゃない。気恥ずかしそうな、それでいて、にやけてしまうのを必死に抑えつけようとしているみたいな、天邪鬼で不器用なところが、ひどく可愛げのあるその表情。ファウストが、誰かに大切にされて照れているときの、あの顔だ。
かわいい、とネロは思った。ファウストの隠しようもなく蕩けてしまっている眦と、引き結ぼうとして絶妙に失敗しているむにむにする唇が、すごくかわいく見えた。触りたいと思った。なんとなく引力に惹かれるみたいにして、彼の身体に触れたことは何度もあった。けれど、もっとプライベートなところに、しかもこんなにはっきりと、触れたいと思ったのは初めてのことだった。
そろっと手を伸ばして、指先だけ、ほっぺたに当ててみる。ファウストは一瞬、眉を顰めながら身を引いたけれど、ネロが確かな意思を持って触れているのだと分かると、眉間を開いて、こちらのするがままにさせてくれた。人差し指を伸ばして、怖る怖る、唇に触れる。薄そうで柔らかそうだったから、加減に自信が持てなくて、触ってしまった瞬間、なぜかネロの方がびくっと派手に震えてしまった。ファウストはそんなネロにつられたみたいに目を見開いて、びっくりした顔をした。当たり前だけれど、こんなところに指を触れていると、ファウストの吐息がかかるのだ。ネロはそのことに漸く気付いて、自分で仕掛けたことなのに居た堪れなくて、けれども今手を離したら、全部なかったことになってしまいそうな気がした。するとなぜだか悲しくなってきて、心臓が、冷たい手で掴まれたみたいにきゅっと竦んだ。
「ファウスト、……」
ネロは呼んだ。情けなく震えた声はきっとすごく不穏に聞こえたろうに、ファウストは嫌そうな素振りの一つも見せないで、すっかりゆるんだまなざしでネロのことを見つめ返してくれた。
「……ファウストのここ、に……俺、くちびるでさわりたい、んだけ、ど……だ、だめ? だよな……?」
引くと見せかけて諦めきれず、結局、語尾を微妙に上げてしまう。熱くなりすぎた目尻から涙が零れ出しそうで、動揺に暴れ出したくなったけれど、爪の先が触れそうな距離にあるファウストの肌を傷つけるわけにはいかないから、必死に身体の震えを呑み込んだ。ファウストの瞼が、ぱしん、ぱしんと瞬いた。鳶色の睫毛の先から、彼の作るシュガーのような綺麗で透きとおった光のまぼろしが、いくつもぽろぽろと零れ落ちて、ネロの指先を擦り抜けてゆく。ああ、綺麗だな。
この人の顔の作りは整っていると、百人中九十八人くらいはきっとそう言うけれど、でも今のファウストがこんなふうに綺麗に見えるのは、ほかでもないネロの目を通して見ているからに違いない。ファウストのこのうつくしさは、ネロの想いが作り上げているもの。ネロだけが感じる特別な〝綺麗〟を生きて、温かい血の巡る、ファウストが息を吸い込む。
「……ううん。……だめじゃない。僕は、……きみとなら、ネロとだったら、いいよ」
信じられないような気持ちで、ネロはファウストの顔を見つめた。けれども同時に、まるでもうずっと昔から、当たり前に二人でこんなことをしていたような気持ちにもなった。そんな筈はないのに。ないのに、ネロの心はこの信じられないような幸せをすっと受け容れて、自然に己の骨肉へと馴染ませてゆく。
……ゆっくり、飛び跳ねる心を押さえつけてゆっくりと、顔を寄せていく。こんなに近くで、見つめ合ったのは初めてだ。そのうちファウストが耐えきれなくなったようにぎゅっと両目を閉じた。桃色に染まった柔らかい頬が、やっぱり、美味しそうに見えた。
――あたたかい。
やわらかい。好きだ。だいすき。
ファウストだから、こんなに好きだ。恋だからじゃない。出会う前なら、きっと誰でもよかった。だけど出逢ってしまったから、もう、ファウストじゃなきゃだめなんだ。
握った手に、きゅっと力が籠もる。どちらからともなく、そうしていた。繋いでいなかった方の手も、自然と互いに探り合って、出逢った指先どうしを絡ませた。熱くて、ファウストの香りが近い。ファウストは嫌じゃないかな。互いに少し汗をかいている。慣れない必死さを見せ合っても、お互いばかにされたりなんかしないと分かっているのが、本当に嬉しかった。どくどく、全身が心臓になったみたいにうるさい。自分の身体が、震えているのか静止しているのかも分からない。ファウストには全部伝わってしまってるんだろうか。それでもいい。だってファウストは、そんなネロをばかにしたりなんかしない。それに、ファウストはこんなネロでも、こんなネロとだから、してもいいって言ってくれたんだ。
キスを。
閉じた瞼の裏が、酸欠でちかちかと星を映し始める。けれどもう、このまま死んじゃってもいい。だってまだ離れたくなんかない。いややっぱり、このままじゃまずい。だってもっとずっと、ファウストと生きてみたいのに。
ぷは、と唇を離したのは、二人同時だった。
止めていた息をすうっと大きく吸い込む。肩で息をしながら、ぼやけた視界が、だんだんと像を結んでゆくのを待った。朧げだった相手の顔が漸くはっきりと見える。瞬きを繰り返すと、涙なのか汗なのか分からないものが目の縁をぼろぼろ滑り落ちたけれど、茫然と見遣ったファウストの目許も、ネロと変わらないくらいびしょびしょに濡れていたものだから、安心したやら、照れくさいやらで、思わず二人して声を上げて笑ってしまった。
なんでもない夜のことだ。けれど、汗か涙か分からない雫の乗った目では、なんでもない部屋の様子が、やけにきらきらとして見えた。
ネロがキスをした友達は、ファウストが初めてだった。
ファウストで、よかった。
ネロは、ファウストがよかった。