厄災が近づくと気が立つ。
そわそわするし苛々しがちになるし、それはネロだけじゃなく殆どの魔法使いが似たようなものだろう。勿論、先生も。あのいつもあれだけ頼れる先生も。
だから近くにいない方がいいと思った。他のやつならまだいいのだ。東の店での接客と同じように、きっとできる。薄い膜を張って、透明な壁を挟んで。自分の内心なんかどうだっていいから、相手の気をただ逆撫でしないように、上手くやれる。
でも、たぶん、ファウストじゃ無理なのだ。
ネロにはもうきっと無理だ。ファウストが相手じゃ、そんなによそよそしくできない。いつもは驚くほど遠くから気遣いを寄越し合ったりするくせに。そんな距離こそが居心地いいとうそぶいているくせに。けれども前提としてファウストとネロは、今やお互いに気を許し合って存在を求め合っている仲なのだ。だからネロは、その〝前提から〟否定されるかもしれない、これからの季節が怖い。
互いの存在がわけもなく疎ましく思えてしまうことを想像すると苦しい。わけもなくファウストに当たり散らしたり、そのくせ彼から同じように冷たくされるときっとこの世の終わりみたいに取り乱してしまったりする自分の姿を、淡々と予測するだけで気が塞いでくる。
だから、だから近くにいてはいけないんだ。
ネロがここにいるのは〈大いなる厄災〉と戦うためだ。ファウストや東の子どもらと一緒にいなければいけないのもそれが理由だ。厄災が一番近づくとき、ネロたちは互いを疎んでいる場合じゃない。きっと今までで一番、心を一つにするとかってやつをして、全員並んで同じ方向へ立ち向かわなければいけない。けれど、だからこそ、どのみちそうするしかないのなら、それまではせめて無用な諍いや悲しみや絶望は起こさずにいたい。そのためにファウストとなるべく会わない。顔を合わせない。一緒にいない。
それが、賢くて正しくて優しい最善の方法なんだって、なんでもない顔をしながら必死で何千回も声に出さず唱えた。
「――……ファウスト」
「…………あ……」
久しぶりに二人きりで会話をしたのは、とある夜のことだった。屋外に出してある食材や道具を片づけて勝手口から戻ってきたネロが、キッチンに入ってきたファウストと偶々鉢合わせたのだった。嘘だ。本当は気づいていた。無用なストレスは避けたいから、誰かがキッチンにいれば暫く外で息を潜めるつもりでいた。ファウストだと分かったからドアを開けたのだ。
普段から四六時中毎日べったり傍にいるわけじゃない。それなのに、そうしないでいようと決めて過ごすとこんなにしんどいものなんだ。ネロは意志の強い方じゃない。辛抱もあまり得意でない。けれどファウストとの関係のためならなんとかできると思ってた。するしかないと思ってた。結局、思ってただけだった。
「……ネロ……」
「……どうした? 小腹でも空いた?」
「ああ、いや……」
ファウストはネロを見てびっくりしていたみたいだった。ネロが話しかけるとさらに戸惑ったように、彼らしからぬぎこちない受け答えをする。怒っていたり、苛立ったりしているふうではない。ネロは少しだけ、安心した。数日の間避けておいていきなりこんな態度をとるのは嫌なやつだろうなとは思ったけれど、こっちが悪意をもってそうしていたわけじゃないってことだけはどうにか表したくて、いつもよりもっと優しい声を、がんばって出した。対するファウストは遠慮の塊みたいな仕草で目を伏せた。
「……寝つけなくて。ホットミルクでも淹れようと思ったんだ。すぐに終わる」
すぐに用は終わる。だからすぐにここを出ていく。そういう意味だろう。ファウストは気遣ってくれているのだ。ネロがなんとなく彼を避けていると、ネロとはなんとなく同じ空間にいない方がいいと、既に察してくれているから。
だけど。
そんなの冗談じゃない。
「俺に作らせて」
「……え」
ファウストが大きな目をふーっとまんまるく見開いた。ああ、久しぶりに見るな、その表情。ううん、ファウストのどんな表情だって間近で見るのは久しぶりだった。たった数日なのに。ひどく恋しくて、ネロはそろそろと歩み寄るなりファウストの手を掴み上げて、手袋越しにぎゅっと握り締めていた。
「っ、……で、でも、」
「ファウストのために、なにかしたいんだ、俺。今、ものすごく」
持ち上げた手の指先に、なにか考える前に唇を寄せていた。本心をすらすらと打ち明けた。ファウストが心細そうな顔をする。ネロははたと我に返って、ファウストのその表情について、そしてまた自分自身の行動について首を傾げた。
「……僕のこと、避けてたんじゃないの?」
「そう。ごめん。厄災が近いから、お互い気が立ってると思って、あんたと気まずくなるのはいやだなと思って。他のやつとならまだ我慢できるけど、あんたには甘えちまいそうで、嫌な気持ちにさせちまいそうで、俺もあんたのこと、ほんとは好きなのに不意に嫌だって思いそうで、それがいやだから、だからあんまり一緒にならないようにしてたんだよ。……ごめんな。ファウスト。あんたのことすごく好きだから、だから、今、何日かぶりになっちまったけど、あんたに喜んでもらえるようなことをなにかしたい。俺の手で。させてほしいな……」
久しぶりにまともに口を利いたら喋りすぎてしまった気がする。きらきらした目でお出かけから帰ってきて、友達にたっぷりお土産話を聞かせたがるお子ちゃまみたいだ。子どもの頃のネロにはそんな友達はいなかったけれど、今、いるんだなあ、って頭の遠くのほうでぼんやり考えた。
「…………そう」
ファウストはたっぷり、ゆっくり二つまばたきをする時間をとって考えたあと、空気に掠れるくらいの小さな声で頷いてくれた。鳶色のきれいな睫毛が、夢か芸術作品みたいにこちらをうっとりとさせながら持ち上がって、その帳の向こうから、まるでネロを恋させるみたいな夜明け色の瞳が覗く。
ファウストはやわらかいまなざしに、柳眉を心配そうにふにゅっと下げて、心許なさそうな角度で小首をこてんと傾げて、ネロの顔を見上げた。
「本当に……僕がきみになにかしてしまったり、もしくは、僕がきみになにかをしてあげられなかったりしたわけではない?」
きゅんっと心臓を掴まれた。そんな気がした。
ネロの心を本当に慮ろうとしてくれているのだ。丁寧に確認してくれるファウストの声は、この世のどんな……喩えば、そう、マシュマロやコットンキャンディなんかよりも優しい。ネロが焼くパンよりもうんと柔らかいと思った。それが悔しくなくて、ひたすらに嬉しかった。
「ああ。そんなことは一つもないよ。本当にごめん。黙って離れるんじゃなくて、なにか言えばよかったよな。あんたとはそんなに四六時中べったりしてるわけじゃないし、偶々殆ど顔を合わせなかった日が何日か続くくらいのもんだろうから、別に不自然にも見えないだろうし、俺も我慢できるだろうと思ってたんだけど。結局どっちもだめだったな。本当にごめん、ファウスト。本当はずっと、俺、あんたとこうしたかった、一緒にいたい」
ファウストの手のひらを自分の頬に押し当てて、ネロはなんだかぼろぼろと熱っぽく語ってしまう。脳みそがふやけているのかもしれない、今夜は月が近いから。
いつの間にかうんと近くで見つめていたファウストの瞳が、潤んだように光を増して、そのうち本当に涙を落とし始めた。今まで夢見心地にファウストに酔っていたネロも、流石におどろいて、あわあわとその雫を指の関節のほんの先で、拭うとも言えないようなおそるおそるの淡さで掬おうとする。追いつかない。止まらない。ファウストの涙が、ぽろぽろ、ネロが触れるのなんかなんの助けにもならないくらい止めどなくあふれてしろい頬を流れていく。
「っ……ファウスト……」
「……ご、めん。困らせて」
「そんなことないっ、そんなふうに思わないでいいよ。最初にあんたに気を揉ませたのは俺だし、なにも言わなかったのも俺が悪かったし、……だから、……なんで、泣いてるの、ファウスト……? 教えてほしい、俺、ちゃんと謝りたい」
片手でファウストの涙に触れて、もう片手で相変わらず彼の手をぎゅっと握り締めながら、ネロは聞いた。ファウストの表情がくしゃっと歪んだ。だめなら答えなくていい。焦ったネロがそう言って押し留める前に、けれどもファウストはわななく唇を開いて、小さな声を絞り出した。
「……さみしかった。……ネロといられなくなって、こわかった、さみしかった、一緒にいたかったから……きみと一緒にいたかったから、そうできなくなったのが、わけが分からなくて、きみがいなくて、……ネロが……僕の傍に、いてくれなくて……、……」
ネロはファウストを抱き締めた。ネロよりもほんの少しだけ小さな体温は、震えたりせずに思いのほかしっかりとしていて、けれどもいつもよりも弱っちく甘えるみたいにネロの胸に縋りついている。
「ごめん、ごめんな」
「ううん、……いいんだ……いいんだ、ネロは、ちゃんと全部、話してくれたから……」
「一緒にいよ、ファウスト。俺ら、離れてちゃだめなんだ。初めて知ったよ。あんたと過ごすこの季節そのものが、初めてなんだから、当たり前か……」
腕の中のとてもとても大切な親友と、それから自分自身の気持ちとを、どっちもゆらゆらとあやすみたいに、ネロはファウストを抱き竦めたままゆったりと身体を揺すった。
「……ネロ、……いいの?」
「いいだろ、もう。今でこんだけお互いにストレス溜めてたんならさ……。一緒にいて、なんか……もしもなんかあったら、もうそんときはそんときってことで」
ネロがようやく、普段どおりに近い面倒くさがりさを発揮したら、ファウストの方もやっと、心細そうだった雰囲気を解いて、ふーっと長めの息を静かに吐き出した。そうっと顔を覗き込んだら、眉間にかすかに寄っていた皺はほぐれて、涙の跡ができた頬はうっすら緩んでいた。彼が自分の傍で少しでも安心してくれたんだと思うと、ネロにはもうそれだけでほんとうに嬉しくて、うれしくて、夜空のてっぺんを突き抜けて飛び上がりたいくらいに幸せだった。
キスしてもいい、と聞いたときにはとっくに唇が触れていた。ネロの目をぎりぎりまで見つめていたファウストは、その言葉におかしそうに笑んで、それから、縁の紅く染まった瞼をそっと下ろしてこたえてくれた。
――ホットミルクを淹れてほしいな。
ファウストがはにかんだみたいにそう頼んでくれたから、ネロはまるでダンスをするみたいにファウストの手を取って、パントリーまであからさまに嬉しげなステップを踏んでしまった。
蒼い月明かりが楚々と差す中、堪え損ねた恋心は浮かれた足取りで跳ね回る。
まるで春の猫のよう。
けれど、それよりはもう少し、優しくありたい。
ファウストとだから、だからネロは、きっと優しい恋でいたい。