ネロファウ

にゃーとマシュマロ

 そっか、ファウストも喜んでくれるんだ。
 ネロはこの日初めてそうと知った。

「食べてしまいたいくらいに可愛い、って言葉があるだろう。あれとはちょっと後先が逆だと思うけれど、倒錯的で、楽しいな、これは」
 倒錯的とかいう言葉がこの人の口から出るとも思わなかった。皮肉とか咎めるような口調ではなくて、さっきから本当に楽しそうなのだ。
 ひとつめは、手袋を外した指先につまんで、くるくると彼らしくていねいに眺め回してから一口で放り込んでくれた。味も感想も深遠に噛み締めるみたいに暫く口を閉ざしたまま、ふわふわする食感に合わせて、白いほっぺがもちもち膨れたり伸びたりしていた。
「美味しい」
 口の中の物を飲み込んだファウストが初めに言ったのは、その言葉だった。
 ふたつめからは、なんというか、ファウストはより自由にそれを楽しみ始めた。
 小さい雪うさぎみたいなまるっとしたフォルムに、きゅるっとした、絵本の中に住んでそうな愛らしい顔を描いた、うさぎ。一口大の真っ白な。マシュマロのうさぎ。うさぎの形のマシュマロ。
 ネロの作ったその菓子を、作った本人の目の前で、楽しそうに耳を引っ張ったり、半分だけ顔をかじったりしながら食べている。とはいえそれは蟻の巣に水を入れる子どもって感じではない。
 「みみってどうやって生やしてるんだ? すごい」とか、「一口で消えてしまうのは可哀想だからと思ったけど、顔を半分抉り取るのは却って心苦しいな……こんどは尻尾からかじる」とか、一々ネロに話しかける。楽しそうににこにこしながら。傍のテーブルではお行儀よく、きちんと椅子に座ったリケとミチルが、こちらも楽しそうにお喋りを弾ませながら優しい手つきでつまんだマシュマロを頬張ってくれている。ミチルはさっき「食べるのが勿体ない」と零していたとおり、未だにふと手を止めて、じ……っと悩ましげな目つきでうさぎとにらめっこしてくれていたりする。対面に座るリケから、お腹がいっぱいなら僕が食べてあげますよ、安心してと言われて慌てて口へ放り込む。かわいいものだ。
「しかし、本当にかわいいな」
「……ん、ああ。マシュマロの話?」
「そう」
 ファウストはいっとき、ネロの視線の名残を追ってお子ちゃまたちの姿を見つめたけれど、それについてはなにも言わずに自分の持ち出した話を続けた。
「うさぎも、見た目の可愛らしいいきものだよな。マシュマロのふわふわもちもちしたちいさなイメージと結びつけた、きみはやっぱりすごいと思う」
「はは……。どうも。……そういや、あんたは動物が好きなんだっけ。猫をよく可愛がってるよな」
「……うん」
 お、と思った。猫を可愛がってるよな。そう言ったら、ファウストはそんなことないとか勝手に寄ってくるだけだとかってはぐらかすものだとばかり思っていた。今までが悉くそうだったからだ。
 今日は違った。
「好きなんだよ。猫はかわいいし、うさぎも好き。けど、僕は陰気な引きこもりの呪い屋だから、ねこにもうさぎにも他人にも前向きな興味なんかこれっぽっちもないんだ。でも、好きだ。猫は可愛いし、兎も愛しい。……きみは、優しいしね」
 静かに語ったファウストが、うさぎのマシュマロをネロの方へ向けて持った。ことんと、ふたつの首が一緒に傾ぐ。ファウストの微かに笑みの載った顔と、絵本の中でしあわせに暮らしていそうなうさぎとが、並んで小首を傾げて、愛くるしくネロを見つめている。
「…………思い出した。あんた前にさ、スープのお礼って言って、スープ皿をうさぎに変えて返してきたことがあったよな」
「そんなこともあったね」
 ファウストが自分の指先にいるうさぎと、きょとんととぼけた調子で目を見交わした。
「あんときは、なんつー突拍子もないことしてくるんだと思ってびっくりしたけどさ……。あのうさぎ、仕草のディテールも凝ってたし、体温も本物みたいですごかった。魔力そのものの質とか魔法の巧さも勿論あるけどさ、先生のあれは、本物の生きたうさぎをちゃんと丁寧に観察したことがあるからこそできることなんだろうなあと思ったよ。誠実さのなせるわざっていうか……」
 ネロはもごもごと呟いた。元から褒め散らすつもりだったからそれはいいのだけど、故あって少し焦ってもいた。静かに慌てるネロの姿をどう捉えたのか、ファウストがうさぎと一緒にこちらを向いて、ふたりしてふわふわとわらってきた。
「あはは、気を遣ってくれてるの。呪い屋のくせに猫もうさぎも好きな僕へのフォローのつもり? ありがとう。やっぱりきみは優しいな」
「違う。あの、俺さっきいろいろ言っちまったから……あんたの目の前で……。俺の趣味じゃないとか、その、まるで可愛いのが好きじゃ悪いみたいなこと、いろいろ……。ごめん」
 手のひらに汗を隠して、ネロは謝った。しょぼくれた謝罪にファウストは穏やかな目をして、小さなうさぎのあたまを指の先でそっと撫でて見せた。
「いいよ。それはきみ自身が他人からそう思われたくないっていう話だろう。僕に向かってそういうことを言ってきたわけじゃない」
「けど、……。ファウストは、そんな俺に〝気にするな〟って言ってくれたのに。俺らしくない可愛いうさぎのマシュマロも、シノやヒースは喜ぶだろうって言ってくれて……あんた自身も、こんだけ楽しそうに食べてくれた。嬉しかったよ。俺、てっきり、あんたにも揶揄われるもんだと思ってたんだ。あんたがこんなのを喜んでくれたのが嬉しくて、それで俺、ようやく、あんたに酷いこと言っちまったんだって気付いたんだ。本当にごめん」
 こんな声を、子どもたちに聞かれたら心配させてしまうとは思ったけれど、どうしても矢も盾もたまらずにネロは食い下がった。
 ふ、とファウストが柔らかく息を零した。「いいよ」ともう一度、ネロの目をそっと見て、噛んで含めるように返してくれた。
「僕の言いたかったこと、ちゃんと伝わっていたみたいだからそれでもういいんだよ。言いたかったことってつまり、きみへの恨み言なんかじゃなくて。……きみにあまりつまらないこと気にしてほしくないなってこととか、きみがらしくないと悩みながらも子どもたちのために作ってやった可愛いお菓子が、僕も好きだよってこととか。そういうこと、全部、きみが汲み取ってくれたならもういい。それでも謝ってくれた、優しいきみが、やっぱり好きだよ」
 もちもち弄んでいたうさぎさんを、ファウストが、ん、とネロの口許へ差し向けた。どうしたらいいか分からなくて、ぼんやり口を半開きにしたまま固まっていると、ふにっと上唇に押し当てられる。
「あ、ネロの浮気者。僕よりもじぶんで作ったうさぎの方がかわいいの?」
「……あんたが押し付けてきたんじゃねえか……」
「あはははっ」
 食らい付こうとすると、ファウストの指は逃げなかった。だからぱくっとあっけなく、ネロはうさぎマシュマロを拐ってしまう。勢いあまって少しファウストの指を食べてしまったけど、ファウストは楽しそうにあどけなく笑うだけで、嫌そうな顔もつらそうな顔もひとつもしなかった。
「ん、やっぱ美味いな、これ」
「ふふん、そうだろう。なにせネロのお手製だからね」
「なんであんたが自慢げなんだ……」
「きみがきみのことを褒めてやってると、僕も嬉しいんだ」
 食べたそうにしていたからひとつつまんで口許へ持ってってやると、ファウストは当然みたいな顔をして、嬉しそうにネロの手からマシュマロをついばんだ。
「……なあ、ファウストは、動物だったら猫がいちばん好き?」
「うん……? ……そう、かな。猫は特に好きだ」
 首を傾げて口許をもちもちさせるファウストが可愛い。
「そっか。次のおやつの時間は楽しみにしててよ」
「……! ……ねこ? ……作ってくれるのか?」
 目を見開いて、はっとしたように背後のお子ちゃまたちの様子をこそこそと窺ってから、ファウストがいかにも重大な秘密を聞いてしまったというみたいに深刻に声を潜めて問うてくる。
 思わず吹き出しかけたのをネロは、今週でいちばんってくらいに腹に力を入れて気を張って堪えた。それでもふやける口許はご愛嬌だ。
「ああ。がんばってみる。ただしこれはほんとうに、ファウストにだけの特別サービスな?」
 いたずらっぽく笑いながら囁けば、ファウストは真剣な面持ちで噛み締めるようにうなずいた。きらきらした目の輝きがサングラス越しにもまったく隠せていなくて、堪らない。ネロはこの人のことが好きだ。
「……今日のお礼ってことで、さ。俺を気遣ってくれたのも、うさぎを喜んでくれたのも、ほんとに嬉しかった。……ありがとな」
 潜めた息づかいのまま、こんどは少しだけ真剣さが載るように、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「……。うん」
 ファウストはネロのこころに合わせるみたいにゆっくり、ひとつまばたきをしてから、きらきらする、やわらかい笑顔で、てらいなくうなずいてくれた。

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