「せーんせ」
深夜にコップ一杯の水が欲しくなる。
それはほぼ毎夜のことで、だから分かりきっている筈なのに、僕が枕許へ水差しを備えておこうとしないのは、水を汲みに来るためだった。
この場所へ。
「――ネロ」
「なあせんせ、……おどらねえ?」
「……は?」
ホットミルクかホットワインか、淹れようかと毎回一応訊いてくれるネロに、今夜は首を横へ振って、水を飲み干した直後のことだ。
思いがけない言葉に茫然とする僕の手から、そっと、空のコップを奪い取って、魔法を使って片してしまう。ネロにしては珍しい所作にいっそう目を瞬いていると、用事の空いた手は僕の寂しい手を取って、勝手口の方へと引っ張った。
「ネ、ネロ……」
「先生はさ、踊ったことが、あるんだろ」
「なに……。観月の舞の話か? それならきみも」
「いいや。それよりも、もっと前の話」
ネロはこっちを見ていなくて、僕らが歩いていく方を見ていた。勝手口の戸を静かに開け放って、星明かりが照らす方へと歩み出す。ささやかな光に浮き上がる、夜風が幽かに吹き抜けていく、僕らの前途だけをまなざしていた。
「……。ただの、……趣味、というか、まあ成り行きで、少しだけな」
「そっか。上手だったもんな。あのときのあんたの踊り、俺すごく好きだった」
「……そう? 大したものではなかったと思うけど……でも、ありがとう。僕はね、きみの踊りがとても好きだなと思ったんだ、実は」
「なあんだ。あのときもっと褒めてくれてもよかったよ。……ありがと、先生」
「……うん……」
じゃあさ、とネロが振り向く。この世界のどこに月があるか、星々があったか、僕はそのとき、わからなくなった。
僕らは足を止めていて、冷たい風と草の匂いの中で、ネロが僕を見ていた。
「――俺と踊らねえ?」
月の在り処も星の在り処もわからない。この世のどんな光よりも、今、僕の目には、ネロの優しさに陰ったその仄暗い笑顔こそがいっとう眩しく見えたんだ。
「夜通し亡霊とダンスも疲れんだろ。俺となら、ゆっくりでいいし、いつ休んだっていいし、ステップも振りもめちゃくちゃになったっていいんだからさ。……偶には、俺と二人で、踊ろうぜ。――ファウスト」
優しく抱き留めるみたいに、身体が寄せられる。
「今のあんたのダンスさ、たぶんこの世の誰よりも、いちばんにファンになってやれる自信あるよ。俺。……なんてな……」
「……ネロ」
なにか答えたいと開いた口で、彼のなまえを呼ぶのが精一杯だった。優しく握り締められた手が、そっと彼の方へと引かれる。
――彼が一歩、引いた分だけ、僕の身体が前に出た。くる、と静かに、足取りを確かめるような半分だけのターン。
「……ネロ、ありがとう、僕はきみと、きみと踊りたい」
「……あはは! もう踊ってるけど、んじゃ、遠慮なく」
遠慮なくと言ったって、ネロの動きは相変わらず気遣わしい。……かと思ったら時折、甘えるみたいに素っ頓狂に乱れ始める。僕もネロの仕草に悪乗りして、彼を困らせる変拍子を踏んだ。ネロは困ったみたいにした。僕を詰った。その顔も、声も、ああ、どうしてなんだろうな、本当に楽しそうだった。
昼間よりもうんとあどけない顔をして、ネロは楽しそうにずっと僕と踊った。僕も、そんなネロと手を繋いだまま、ずっと楽しく踊り明かした。
僕も。
僕もネロのダンスを、この世の誰よりも、守ってやれる者でありたいよ。