ネロファウ

獲物と書いてきみと読んで

 目の前にふらふら揺れるリボンを引っ捕まえたら、ぴた、と動きが止まった。単なるちょうちょ結びじゃないのでほどけていくことはなかったけれど、猫の爪にかかって死んでしまったちょうちょみたいに生気がなくなる。ファウストの指に髪飾りを抓まれたまま、もしもこの頭が後ろを振り返ったら、負けるのはどっちだ。
「……んん?」
 足を止めたネロは振り向かぬまま、問うような声を上げた。気の抜けた声だ。やや怪訝そうではあるけれど、彼と一緒に歩いていたのはファウストだけだったから、自分の後ろ頭がなにか不可解な力でもって引き止められたなどと困惑している様子はなかった。
 ネロはちょっとだけ、天を仰ぐみたいに首を仰け反らせて、姿勢でファウストの意図を問う。今のところどちらも負けていない。髪の毛をむやみに引っ張られてネロが痛がることも、振り払われてファウストの指がリボンを離れることも、ない。
「トリック・オア・――。……いや、なんでもない」
 ここまでしておいてファウストがその台詞を口籠もったのは、これをネロに向けるのは違うと、不意に思い直したからだ。そんな二者択一を迫って脅さなくたって、ネロはおねだりすればお菓子をくれるし、ねだらなくたってファウストに必要なときにはお菓子をくれるし、そもそも子どもらのような真似をしてファウストがネロに甘えるなんておかしい。自分はどっちかといえばネロと同じ立ち位置なのだ。子どもらに施す側。
 それでなくとも今日の料理人はその所以で大忙しだったのだ。これ以上彼に追い討ちをかけるみたいな甘えた態度を取るのは、彼の、対等なともだち、として、したくないと、思った。
「んー……? 先生は、いたずら一択なの」
「……えっ」
 甘やかな声でこちらを茶化したネロがくすくす笑ったから、ファウストは思わずびっくりした猫みたいに肩を跳ねさせた。
「ち、ちがうっ、これは、」
「かわいーいたずらだね」
 背中を向けたままのネロにそっと手首を捕らえられて、途端にファウストの指はへなへなとネロの髪飾りから離れた。力を失って落ちかけた手が、すかさずくるりと身体ごと振り向いたネロの手に掬われる。
「ぁ……」
「……先生も、いたずらされたいのか」
 俺に。
 ネロはそう囁くと、拾い上げた手をゆるく握り締めて、帽子の陰を下からそっと覗き込むみたいにして、上目遣いにファウストの顔を見つめてくる。
 ぱ、と顔が熱くなった。なんだか無性に泣き出したくなったファウストの表情の変化を認めたのか、ネロはこてんと小首を傾げて、叱られた子どもを慰めるみたいに無害な表情で、ゆるく微笑んだ。
「自分だけだなんて、思わなくていいよ。あんたが菓子をせがんでくれるなら、俺もなにか一つ、あんたに甘えるし、あんたが俺だけにいたずら仕掛けてくれるって言うんなら、俺も……俺だって、ファウストにいたずらしたいんだよ。……してもい?」
 手を握っているのと反対の腕で、いつの間にか肩を抱き寄せられていてびっくりする。
 「……それって、いたい? にがい?」と、困ったファウストが怖る怖るそれだけ訊ねたら、ネロは猫みたいに目を丸くして、「ごめんな」ってかわいそうなくらいに優しい声を出して首を振ってくれた。
「痛くない。にがくも……たぶん、ないよ。あんたが俺にしてくれたくらいの、可愛く済むやつ。……まあ、俺があんたにされてそうなったみたいには、あんたは俺にされても、ときめかねえかもしれんけど……」
 ぎこちなく笑って見せたネロが、後の半分になにを言っていたのかはファウストにはよく分からなかった。けれど、それでも、いつもと違う仮装をしていても、異界のミステリアスな風習に則っていても、どこまでも気遣わしげに触れてくれるネロは、確かに、たしかにいつものネロだった。
 ファウストの大好きなネロだった。
 ファウストが恋をしたネロだった。
「……して。ネロ。僕は、きみのいたずらなら、……きみになら、いたずらされても、大丈夫だから」
 覚悟を込めて、小さく呟いた。ふっと真面目そうに笑みを消したネロのひとみが、ファウストの視線をじっと、まっすぐに見つめ返してくる。
「……じゃあ、……そうだな、」
 少しの間逡巡したネロが、ゆるく握り締めたままの、ファウストの左手へと視線を落とした。
 「失礼」と一言、彼らしからぬ慇懃な――いや、誠実そうな響きを帯びているために、どちらかというと恭しいと言う方がしっくりくるような――言葉を言い置いて、持ち上げたファウストの手の甲をそっと撫でる。
 そこに嵌められた、シースルーのショートグローブ。そのふちを優しくなどられている、とファウストが思っているうちに、それは自分の手からいつの間にか抜き去られていた。
 目をぱちぱちさせるファウストの前で、夜色に塗った爪と、その所為でいつもよりも蒼白く見える手とが夜風にじかに晒されている。
 その光景の意味を考える、間もなかった。
「!」
 ファウストはびくりと固まった。
 ――ネロに口づけられていた。剥き出しになった手の甲へ。
「……はい。これが俺のいたずらね」
 ネロが顔を上げてへらりと笑う。茫然と見下ろした自分の手には、何事もなかったかのようにグローブが元どおり嵌められていた。
(……ど、……)
 ……どこが、〝いたずら〟……?
 ファウストは身悶えするような疼きを必死で胸中に押し隠して、噛み締めた唇の奥で声にならない呻きをぐるぐると呟いた。どうしようもないくらいに顔が熱い。ぎゅうっと引き絞られたみたいに締めつけられる心臓が、そのくせいつもの何倍もの大きさになって、どこどこと激しく暴れ立てていた。
 「今夜は冷えるし、そろそろ帰ろっか」と本当になにもなかったみたいに言って、あろうことかネロはあっさりと背中を向ける。向けそうになる。
 ええいままよ。ファウストは咄嗟に衝動的にやけくそで捨て鉢の思いで、ネロのひらひらする袖を掴んだ。
 猫のちょっかいに動きを止めた、気の優しい胸に、すかさず思いっきり飛び込む。
「……ふぇ……?」
「……っ……」
 数秒のぽっかりと静止した空白の後、漏らされた間抜けな声を、耳許で聞いた。困惑して抱き返してもくれない恋人の肩に額を押しつけながら、ファウストはもんどり打って転げ回りたいような気持ちと、上がる呼吸とを必死に殺していた。
「……ねろ」
 どうにか落ち着いたと思って、やっと絞り出した声は、けれどももう言い訳も利かないほど甘ったれて潤んでいた。恥ずかしくて堪らなくなって、ネロの胸でこのまま溶けて消えてしまいたくなる。どうにもならなくて身を小さくするファウストの背中を、そのとき、漸く抱き返してくれた腕が、あやすように優しくさすり始めた。
 ……ああ結局、子ども扱いさせたんじゃないか、僕は。彼の優しさに甘えて、歳下振った甘え方をすることしかできていないじゃないか。ファウストは思って、愈々泣きたくなった。自分の浅はかさに、こいごころというもののままならなさに、本当に悲しくなるくらいに落ち込んだ。
 それなのに。
「ええ、っと……」
 落ち込むまでも、なかったなんて。
 ファウストは目を見張った。ネロがファウストの耳許で、ぎこちなく口を開いたのだ。
「……ええと、これは、……お菓子、かな……?」
 その口から漏れた声は、紛れもなく、ファウストと恋をするネロの。
 彼の隣にいるファウストに、彼がじわじわと対等に甘えてきてくれているときの、まごうかたなくその声だったのだ。
「……う、ん」
 引き摺った悲しさと、ネロの言葉で咲いた嬉しさとで、瞼が腫れぼったく熱を持つ。火照った顔を上げられないまま、ファウストが必死に頷くと、ふ、と、耳たぶに、安心したような短い笑い声が触れた。
「そっか……。……んじゃ、俺からも、あげないとな」
 優しい、やさしい甘い声がする。頬をそっと、撫でて、促される。ファウストは、ネロの手に誘われるまま、ひとひらの躊躇もなく首をもたげた。
 意図を受け容れるように瞼を下ろせば、彼の唇がファウストのそれにゆっくりと触れて、そうして遠慮がちに、ほんの少しだけ食むように動いてから、またゆっくりと離れていった。
「……なあ、ファウスト」
「……ん……?」
「まだ、〝ごちそうさま〟言えねえな、俺」
 いたずらっぽく、おねだりするみたいに、あるいは悪友に悪ノリをせがむみたいに、甘えた声でネロは言う。それから、ファウストの視線がさっきからずっと吸い寄せられて離せなかった、彼の口許、の、黒いリップ、そう、ファウストの塗っていたのが移ってしまった黒いリップクリームの残滓、を、ぺろ、と。
 まるで美味いものを食った獣みたいな舌なめずりで、舐め取った。
「お子さまたちにはあげられない、甘い菓子、あんたにならあげるよ。俺も、……もし、ファウストが俺にくれるって言うなら、貰いたい。……だから、」
 ぞく、とする。
 射抜かれた、ひたむきな光に。ファウストの全身は、心臓は、ネロの甘ったるい熱い視線にぎゅうっと絡め捕られてしまって、背筋がぴりぴり痺れて、心音がばくばく鳴る。ちからが、ぬける。脳が溶ける。まるでファウストは最初から、ネロに食べられるためのチョコレートだったみたいに。
「だから、……どう? その、今夜、……えっと、……俺、と……、……」
 けれどもそこで、ネロの表情はたちまち情けなく歪んでしまった。唐突な変化にファウストはぱちくりと瞬きする。ネロは、土壇場で直截に言おうかどうか果てしなく思い悩んだような、直截に言えないようなことを持ちかけたこと自体をこの期に及んで気まずがっているような、なんとも言えない憐れっぽい心許なさを、迷子の涙みたいにいっぱいに目に湛えて、おろおろとファウストを窺っていた。
 ……なんて男だ。
 高いところへ登ろうとして失敗して落っこちて、恥ずかしくて悄気返る猫みたいに項垂れたネロの、可愛い、とんでもなくかわいらしくいじらしい表情をまじまじと眺めて、ファウストは思わず、うっそりと笑った。
(――ああ)
 ああ、可愛い、可愛いかわいい、僕のネロ!

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