「甘えさせてください」
という直截な物言いが大変好ましく、だからファウストも清々しく「いいよ。どうぞ」と、ちょっと腕を組んでふんぞり返ってみたりする。
ははあ、ありがたき幸せ、とでも言うように頭を低くしながら寄って来るネロの、しかしその実はまるで飼い主の脚に額をこすりつけようとする猫だ。背丈は自分とさほど変わらなく、なんならたぶんネロの方がちょっと高いくらいなのだが、ぽふん、といかにも可愛らしいやり方で今、ファウストの隣に収まったネロは、あたかも自身がそういう小動物ででもあるかのように、ぐりぐりとファウストの肩へその水色の髪を擦りつけてくる。
ほんとうに美味しそうな水色だ。甘える、ということは、食べてみたら甘いのは甘えるネロの方なんだろうか、それとも甘やかすファウストの方なんだろうか。食べてみようかな、とちらっと思って、いやいやこうやって安心している子に文字どおり牙を剥くなんてかわいそう、と思い直すとファウストは優しげな手つきを繕ってその水色を撫でた。
「ベッドに行く?」
「……えっあっ、ごめんっ、違うっそういうつもりじゃ……っ」
「は? ……あ……あ、いや違う、こちらこそすまない、そういう意味じゃ……。僕はただ、いつまでもこうして突っ立っているのも、落ち着かないかなと、思って……」
「えっ……? ……あ、ああ! そっっっか、そうだよな、あああ、ごめんっ、お、俺が勝手に変なこと言い出したのか、ほんとごめん、ファウスト……」
「ああいや、僕の方こそ悪かった、僕ときみの仲であんな言い方をしたら、そりゃあきみにそういうふうに取られたって仕方が、……。……ああいや、えっと……、……す、すまない……」
「う、ううん、……ううん……。だいじょうぶ……」
「そ、そう……」
「うん……」
「……」
「……」
お互いもじもじと俯いてしまって、けれども身体はこれ以上なくひっついたままだから、逃げ場はない。幼児のかくれんぼとか、叱られた飼い猫の身の隠し方よりもひどい。つまり頭隠して尻隠さずというような諺よりもひどい。
「……えぇえっと、」
「わっ、……な、なに……?」
覚悟を決めて切り出したら、さりげなさなんて星の彼方な不自然に大きい声が出た。ファウストの肩口でネロの頭がびくっと跳ねて、ぱちぱちと瞬いた綺麗なアンバーがこちらを向く。……わ、ほんとうにきれい……。ネロのなんてことない視線にファウストは一瞬でめろめろになってしまって、意識がすっかり溶け落ちてしまう直前、はっと我に返った。
ふるふると小さく首を振って意識をしっかと持ってから、ネロの瞳をきちんと見つめ返して、仕切り直すように首を傾げながら訊ねる。
「……すわる?」
「……あ……。……う、うん」
ネロが儚げに頷いたのを確かめてから、ファウストはそっと、彼の手を引いた。
先に立ってゆっくりと歩くファウストに、ネロはぽわぽわとした軽やかさでついてくる。いや、ひょっとしたら、彼を連れているファウストの足取りの方がふわふわと軽々しい所為で、そう感じるのかもしれなかった。軽々しい。つまり浮かれているということ。
「ネロ。……ほら」
「……ファウスト」
ベッドに腰掛けて名前を呼ぶ。広げて見せた腕の中へネロは素直に収まって、ありがとう、と小さく呟いた。
その掠れた声を耳の中で何回も確かめながら、ファウストはぎゅうっと親友の背中を抱き締めた。そんな日もある。そんな日もあるし、そんな時間だって要る。
責任ある大人としてまた魔法舎の住人たちのお世話係的な役として、なにかと甲斐甲斐しく立ち回っていることの多いネロにだって、気の置けない相手にわけもなく甘えたくなる日がある。なににも執着しないしすべてに不真面目なので、ゆえになにも嫌なことなんてありませんみたいな顔を取り繕うことの多いネロにだって、あどけない顔を曝してぐずるのを許されるような時間が要る。
それはファウストだって同じことで、もっともファウストはネロほど世話焼きなわけでも優しいわけでも繊細な感受性を持っているわけでもないのだけれど、それでも自分がいくらそう言ったって、ネロはいつでも甘やかしてくれるのだ。ネロのふやっとした声とからっとした笑顔で、先生いつもありがとなとか、俺ファウストのこと好きなんだもん、友達のこと贔屓したくなったってべつにいいでしょ、とか言われたら、ああそうなのかな、ってファウストは思ってしまう。
ネロが、ファウストをただ好きだから直感的に甘やかしたい、と言ってくれるのなら、そのただの好意を、ファウストは直感で受け取りたいと思う。だからファウストも、ネロを好きだから甘やかしたい、っていう飾り気のない気持ちを、隠さない。隠さず伝えたらネロは最初の頃こそむず痒そうにしていたけれど、そうはいっても彼は、そもそも優しい人だから。
優しくて大人なネロは、甘えたそうな目で物も言わずにこちらをちらちらと窺ってくるようなことはしない。甘えたそうな顔をしながら本当に甘えてくるか、さもなければ甘えたそうな気配すら見せずにさらっとしているかのどっちかだ。こんなにも打ち解ける前の、初めの頃からネロはずっとそうで、彼がそんな人だからこそ、ファウストは一緒にいてもいいと思った。〝いても構わない〟が〝いると落ち着く〟になり、〝一緒にいたい〟と願うようになった。運命とかいうものをうっかり好意的に信じてしまいそうになるような巡り合わせ。かわいいネロ。僕の恋しいひと。四百年振りの、しかもかけがえのない、友達。
「……すぅ」
つらつらと考えては溢れる愛しさを改めて噛みしだいていると、俄かに大きく息を吸い込んだネロが目を覚ました。……目を覚ましたということは、今まで眠っていたということだ。どうりで肩にかかる重さがゆらゆらと沈み込んでいって、背中に回されていた腕が腰のところまでずるずる落ちていっていると思った。「ねむる? 傍についていてあげるよ。それとも、一緒に眠ろうか」と、最後の言葉が揶揄に聞こえないように、提案のニュアンスでそっと置いたら、ネロの寝起きの指先がもぞもぞとその言葉を手繰って、抓み上げて、口に運んだ。
その丁寧な間が、ファウストは大好きだった。ネロ自身は後ろめたがっているこういう仕草を、それでもファウストにならばと安心して曝け出してくれることが、堪らなく嬉しかった。
もしょもしょとゆっくり咀嚼するネロは、首を愛らしい角度で傾けながらファウストのことを見つめていたけれど、やがて飲み込んだものと見えて、ぽやぽやした温度で口を開いた。
「……ねむらないよ。起きてる。寝入っちまったら、ファウストのこと、分からなくなる……」
「はは……。なんだ、それ」
分からないなんてことないだろうに。だって、ネロが誰の前でもこんなふうに安心してすぐ眠ってしまうなんて、ファウストには思えない。ネロが〝甘えさせて〟と直截に言って、身体を抱き締め合って、その腕の中でいつの間にか寝落ちてしまう時点で、ネロはこのうえなくファウストをファウストとして分かっているってことだろう。そこにある気配をほかの誰でもないファウストだと認識してくれているからこそ、現の息苦しさを夢の岸辺へ置き去って、たったひとときでも、深い眠りの中へ潜ってゆけているのだろうに。
そう思って愛しさに苦笑していたら、いきなり触られた。びっくりして、咄嗟に身体が強張る。ネロのぽかぽかする手が、寝惚けているのかいつもよりもちょっとだけ無雑作な動きで、ファウストのこめかみを撫でるようにして癖っ毛を掻き上げてきたのだ。
もう片方の腕では、眠る子がお気に入りのぬいぐるみを引き寄せるみたいな強さで、背中を掻き抱かれる。擦り寄せられた顔にファウストは少しだけ身構えた。場合によっては拒絶しなくてはならない、と思うと不意に切なく悲しくなってきて、そうしなければならなくなる前に、〝やめて〟と強く声を上げようかと思った。
――覚悟に強張った身体から、けれども次の瞬間、ふにゃふにゃと力が抜けていってしまった。
ネロに口づけられたからだ。へんなところにじゃない。くちびるにでもない。ネロはファウストのほっぺたに、ふんにゃりとくちびるを押し当てて、ちゅう、とまるでおままごとみたいに無邪気な音をひとつだけ鳴らした。
「……ふぁうすと」
「……ねろ……」
堪らなくなって名前を呼んだら、甘ったるく掠れた。ネロが照れくさそうにもにょもにょと笑って、自分の顔を隠すようにファウストに抱きついてきた。
「……すき」
「うん。僕も……。ネロ、……これから、どうしてほしい?」
「……。……うー……」
甘えるときは直截に。甘やかすのも潔く。
互いがすれ違わないための心得を胸中で今日も唱えて、ファウストは熱く暴れる心臓を抑えて、努めてなんでもないことのようにゆっくりと問いかける。問われたネロはファウストと同じぐらいに、ひょっとしたらファウストよりももっと、恥ずかしそうに、ファウストの身体を抱き締めたまま身をよじってうーうー唸っている。
ああ、かわいい。一体どうしてほしいというのだろう。口にするのをこんなにも躊躇うようなことを、彼は願って? それとも、ぼんやりとした欲求を上手く言葉にできない、彼のそのいとしい性質の所為かしらん。なんだって構わない。いくらでも待とうじゃないか。必死に、困ったように、はにかんだように小さく唸り続けているネロが、確かにファウストへ伝えようとしているなにかしらの言葉を、急かさずに笑いながら待っていてやるのも、間違いなく彼を甘やかすやり方のひとつなんだから。
「…………抱きしめてて、ほしい。あと、……あと……、……できたら、ほんと、できたらでいいんだけど、……………………………………キスして……」