ネロファウ

辞書に加筆

 お子ちゃまたちが〝かわいい〟なら分かるのだ。
 ヒースやシノは彼らよりもやや歳上だが、それでも彼らのことも、ネロにはいっとうかわいく見える。
 そしてなんならルチルやクロエやカインだって、数百年を生きたネロからすれば赤ちゃんも同然。かわいいもんなのだ。
 そう、だからこそ。
 少なくともネロの中で、〝かわいい〟というのはそういう、もっぱら子どものあどけなさを指していう言葉であるからこそ、自分自身が〝言われる側〟となることは、ネロには心安らかには受け入れがたいことだった。
 いい歳した大人を〝かわいい〟なんて言うことはだ。大体侮辱とか見下しとか、或いはそういう敵意のない場合だったとしても、いいとこ揶揄いとか冷やかしとかになる。前者は固より後者だって、仮に相手がよっぽど気心の知れたやつだったとしても、それは少なからず〝相手を貶す〟タイプのコミュニケーションになる。
 どこぞの誰やらにそんな会話を吹っかけられたなら、間違ってもはにかみながら〝ありがとう〟なんて言ってはいけない。怒って相手をしばき返すとか、拗ねて己の〝負け〟を引き受けるとか、そういうのが〝正解〟になるのだ。
 殊にネロは世に言う〝可愛げ〟――つまり愛嬌というものさえも自分は持ち得ないという自覚があったから、なおのこと、自分に似つかわしくない形容詞を外から当てがわれることは、気分のいいものである筈がなかった。
 ――その筈、だったのだけれど。
 いや、その筈だったのだ。だからこそ、ネロは困惑している。最近、ずっと困惑しているのだ。
 なぜなら。ファウストがネロに贈ってくる〝かわいい〟は、まったく嫌味の匂いを纏っていなかったのだから。
 初めて彼に言われたときのことを思い出す。
 ネロが、らしくなく〝かわいらしい〟造形のお菓子を作ったときのことだった。マシュマロのうさぎ。うさぎの形のマシュマロ。あれはお子ちゃまたちへの日頃のご褒美と、それから、賢者さんが、元の世界の行事だという〝十五夜〟の面影を、お菓子に重ねて少しでも喜んでくれないかなという打算のために拵えたものだった。
 だから作ったこと自体に後悔はなかったものの、ネロはかなり警戒をしていた。誰かに見られたくなかった。リケとミチルと賢者さん以外の誰にも。
 〝かわいい〟マシュマロを作ったそのときのネロには、客観的に〝かわいい〟という形容を当てがわれるのに充分な理由があった。その〝理由〟を目の前にした誰かはきっとネロのことをこう言うだろう。〝かわいい〟と。
 そしてそれは、ネロにとって歓迎すべき意味なんかである筈がなかった。たとえそれがあのブラッドリーであったとしても。彼がそれを言うとき、そこに含まれているのは茶化しとか呆れとか冷やかしとか揶揄いであって、ネロのことを〝貶して〟くるタイプのコミュニケーションになるのは間違いないのだから。
 だからネロは……結論から言うとネロは、あのときキッチンに現れたのがファウストでよかったと思った。
 今でもそう思っている。いや、今だからなおさらだ。なおさらそう思えて止まないのだ。
 ネロは今日の記憶を、再び夕闇の中で辿る。
 ミモザサラダを作るヒース。作り方の解説をするヒース。横から小声でカンペを出してやる俺。ヒースの言葉。〝茹で卵を花びらに見立てて、ほろほろにしたものを振りかけます〟。
『ほろほろがネロの語彙ならかわいい』
 言ってふっと微笑んだ、ファウスト。
 ネロは驚いた。実のところ、あまりにも慣れないシチュエーションだったがために却ってその場では流してしまったのだけれど、後になってからじわじわと、ああやっぱりあれは驚くべきことだった、との感慨が湧き上がってきたのだった。
 第一に、ファウストが〝かわいい〟という自身の感想を人前で口にするのを憚らなかったこと。
 第二に、その台詞がネロなんていう可愛げのないやつに向けるにしては、あまりにも澄んで、裏のない声で渡された評価であったこと。
 それら二点について、ネロは今、時間差でじっくりと驚いていた。そしてなんなら、ファウストが渡してきたその言葉は、ネロに対する〝評価〟ですらなかったのだろう。
 きっとだからこんなにも、ネロの心はくさくさせずにいられるのだ。
 ネロは、ファウストというやつがどんなときに〝かわいい〟って漏らすのかを知っている。どんな声で、どんな顔で、彼の大好きな猫っていう動物に向けて思わずといった調子で呟きがちであるのかを知っている。
 だから、ネロは知ってる。
 ファウストの口から出る〝かわいい〟は、侮辱や揶揄いではあり得ないということ。
 ファウストは大人だ。リケやミチルみたいに、人をからかってはいけませんという道徳を守れるいい子なだけのやつじゃない。そしてネロはひ弱だ。心があまりにも打たれ弱くて、どれだけ気を許したやつにさえも、気安く雑に扱われると死んでしまいそうになる。冗談まじりに貶されたなら、それがそのまま胸の奥にぶっ刺さって抜けなくなってしまう。
 そんなファウストが、こんなネロにかける言葉。
 何百年と生きたネロを、じんわりと新鮮に驚かせるほどの、心地よさで響いた言葉。
 ――ファウストの〝かわいい〟は、衒いなく、ただどこまでも抜ける空のように真っ直ぐに、彼の中に湧き出でる〝愛しい〟を音に乗せただけの言葉だった。
 それを知っている、今のネロは。この一年、たった一年ぽっちだけれど、今までの自分のすっからかんな人生からすれば驚くほどに具に、ファウストというひとを見てきて、彼の言葉の優しさを今や既に知っているネロは。
 彼からの言葉を素直に嬉しいと思えて、それと同時に欲を抱いたのだった。
 彼に、彼がくれるのと同じような気持ちを返したいという、当たり前の自然な欲を。いいや、返したいというのはその実誤魔化しなのかもしれなかった。ネロはずっと、言いたい言葉を自ずと持っていて、しかしその欲を、ファウストがネロに一足先に伝えてくれたおかげで、やっと許されたような気になったという、それだけの話なのかもしれなかった。
 今日の記憶と、やっと意識に上った静かな欲だけを、指先に小さく握り締めて、ネロはベッドの中で目を閉じた。ネロは言いたい。ネロをかわいいと言ったファウストに、彼を同じように愛しく思うネロは、彼と同じ言葉を。
 茶化しでもなく、冷やかしでもなく、揶揄いでもなく、冗談ですらなく。
 ただネロは、ファウストのことが。

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