「シャイロック」
真夜中のバーに、幽かな声が染み入った。
つい今し方までお喋りを楽しんでいた、クロエとラスティカが帰っていって、バーの雰囲気が粛然とした隙を見計らってのことだろう。
そっと入り口から身を滑り込ませてきたファウストは、いつものようにひっそりと、静謐な美しさを湛えた所作でカウンターへと歩み寄ってきた。それでも、彼の中の小さな歯車が僅かに、いつもとは違う回り方をしていることを私は察した。ファウストの振る舞いをかたちづくる部品のリズムが、ほんの僅かに狂っているようだ。
それは悪趣味な私にとって、とても興味深いことだった。歓迎すべきことだった。そのような予感が既にしていた。そう、不安げな顔で私の名を呼んで、心許なさげな足音の小ささを、ブーツの踵で不器用に隠しながら私を求めてやって来た、その愛らしい姿を一目見た瞬間から。
「ファウスト。いらっしゃいませ」
「……うん」
頷いて足を止めたファウストは、席に着かずに、カウンターを挟んで店主の斜め向かいに立ち尽くした。あどけない、地の歩み方を未だ知らぬほどの、いたいけな子猫のような表情。ファウストはその無垢なまなざしを伏せたり、少し横に流したり、また小さな唇を開いたり閉じたりしながら、短い間声を発さずにいた。
しかし私が「もう、私も飲みますから。どうぞ、お掛けになって」と促すと、「いや」ときりりとした声を上げ、姿勢を正すと真正面から私の目を捉え、「実は頼みたいことがある」とはっきりと切り出した。
私はそのようなファウストの人となりを端的に愛おしいと思っているけれど、きりりと切り出してしまってからまた、自信を喪失でもしたかのようにふらふらと視線を彷徨わせ始める彼の脆い部分をさえも、同じように愛しく感じていた。
器用だけれどとびきり不器用なファウストの、そのブーツを躓かせている変調の所以を、彼の口から聞かせてほしくて仕方がない。ファウストは私の内心の望みに応えるように、その脆くて凛々しい、魅力に満ちた声を絞り出した。
「大切な頼み事なんだ。けれど、とても、頼みにくいことで……だから、僕自身が逃げてしまわないためにも、きみに対する礼儀のためにも、このままで言わせてほしい」
「分かりました。私の大切なお客様、親愛なる友人、ファウスト。あなたがそうおっしゃるのなら。《インヴィーベル》……どうぞ」
「……助かるよ」
バーの扉を隠す魔法を、そっと施したなら、私の友人は、既に雨雲から差す薄明光線を見たかのような顔で、感謝の言葉を口にした。いたずら好きな西の魔法使いが感謝されるには、まだ早い。
そのような言葉は、私がきちんとあなたの頼み事を引き受けてからおっしゃって。そう言ってみても、真面目な彼はただ「きみが気遣ってくれたことに対する礼なんだから、言い惜しみなんてしないよ」と返した。
私はグラスを傾ける代わりに、パイプの煙をそっと燻らせた。
「そんなあなたからのお願いであるならば、私は、ぜひとも聞いて差し上げたくなってしまうのだろうなという予感がいたしますね」
「うん。実は……僕もそう思う。本当は、頼みにくいと思っているのは僕だけで、シャイロック、きみなら、僕なんかが改めて頼んだりしなくとも、もうとっくにきみ自身の意思でそれを実行してくれるつもりなのじゃないかと……そんな気がしていて」
小さな顎に指を当て、思案げな顔をする彼を見、私はぱちりと瞬いた。歯車が狂っているのだと思っていたけれど、多少そうなったところで彼という人はやはり、彼のままであるようだ。
思いやりに溢れて、愛した相手をこれでもかと気遣う。ファウストという魔法使いに通った芯のようなものは、傍を通りすがりにちょっと見ただけでは分からないほどに、しなやかだ。己の内で多少空回ったり、食い違ったりする歯車すらも横目に、ファウストはその芯をもってファウストであり続けるのだろう。私は目を細めて、彼の抱いたという〝望み〟の具体的な姿について、先ほどまでよりもより豊かに愉しく想像を巡らせた。
「それは、日頃から私を高く評価してくださる、あなたの買い被りかもしれません。けれど、今からお聞きするあなたのお願い事に、私が〝勿論そのつもりですとも〟と頷いたなら――私はそのとき、あなたの〝買い被り〟をあたかも〝真実の評価〟であるかのように、自分のものにすることができるわけですね?」
私が冗談を舌に乗せると、ファウストは戸惑ったような顔をした。サングラスと帽子の合間からこちらを窺う、紫色の瞳は曇りなく揺れている。
「あなたが私をよく思ってくださる種が増えるというのなら、乗るに越したことはありません」
私が〝意味ありげな〟笑みを浮かべてその目を見つめれば、そのような雰囲気に明るくない彼はそれを艶めいた冗談だとは思わず、私が彼の言葉を促すために気遣って叩いた軽口だと捉えたようだった。
決意を固めたように、ふっと短く呼吸をすると、ファウストは意志の強い顔を上げた。
「シャイロック。……ネロのことを頼まれてくれないか」
静かな紫色に燃える瞳が、私の目を真っ直ぐに見ていた。
「たとえばこの先、僕になにかあったときや、なんらかの事情で身動きが取れなくなったとき、僕の目や、手がどうしても届かないとき――僕の代わりに、ネロを助けてやってほしいんだ。あいつは……とても、とても優しくて、それゆえいろいろなことに敏感で、繊細で、傷つきやすいから。そのうえ、傷ついてしまったら、その苦しみを容易には他者と分け合おうとしないんだ。僕が傍にいられるときには、彼の苦手なものや嫌うことをある程度推測して、守ってやれるが……ほかのやつにはあまり、甘えたがらないから。ネロは」
ファウストは、彼の中に棲むいつかの記憶を思い返しているように、視線を空へ揺蕩わせた。いっとき、彼の醸す空気がゆるんで、いとけない情の気配が垣間見える。ついぞ疑心に曇ることのないまま、優しい瞳が瞼に隠れて、そして現れた。
「――けれど、シャイロック。きみになら、ネロも心を許しているだろう? 子どもたちに対してはどうしてもせざるを得ない、ある種類の気遣いも、大人のあなた相手になら、する必要もない。けれど、だからといって勿論、あいつの盾になれなんてことを頼みたいんじゃない。……ただ、ネロに寄り添ってやってほしいんだ。優しい彼が無用に傷つかなくて済むように、彼が飲み込むことで傷ついてしまいそうな経験から、できるだけ、彼を遠ざけてやってほしい。……シャイロックにしか頼めない。お願いだ。僕が傍にいられないときでも、ネロを一人にしないでやって。どうか……。どうか」
ネロの心を、守ってくれと。
そう〝願う〟――いや、天や神などに向けてではなく、生身のシャイロックという一人の魔法使いに向き合って、一心に〝頼み込む〟ファウストの心根は――不馴れな相手にはけして軽々しくは開け放さない用心深い扉を、今の私には開いて見せて、自ら中へ受け入れようとしてくれているその信頼の表し方は――ほかならぬネロのそれと、とても、よく似ていた。
「……そう、ですね」
私は瞼を閉じた。
ワインの香りを芯から味わうときのように。
「……あなたが先ほどおっしゃったように、私はそのつもりでおりました。ネロは気の優しい人だ。それは私も、私の目で見てよく知っていることでしたから。けれども、今、私は私の心に従ってネロを守るということに、漸く、一片の躊躇もなくなりましたよ」
私が目を開けて微笑むと、ファウストはまた、あの意味の分からなそうな顔をした。ああ、愛らしい。あなたのそのある種の無知を、利用するような人ではないと知ったからこそ、ネロがあなたと歩もうとする姿を、私はこんなにも心安く見守ることができるのだ。
「あなたが私にお願いしてきたことで、私はあなたに遠慮する理由がなくなった」
「……遠慮? ……なんのことだ?」
「ふふ。……あなたを差し置いて私が彼の人生の一端を支えてもいいものかという、葛藤が断ち切られたという意味ですよ。ネロの恋人であるあなた自身から、ネロを支えることを頼まれた今、その願いを無下にする方が却って、あなた方の恋を苦しめてしまうことになると分かったのですから」
「…………は…………?」
ファウストは私の紡ぎ出す言葉の織り目から、ある一本の糸の色を違わず見出して、白皙の頬を赤く染めた。こいびと、と弱々しく反芻している様は見るからに清純で、潜在的に傷つけられやすく、そしてそれゆえに、実際には傷つけられていない彼が現在の相手からどれほど大切に愛されているかという事実を、ありありと表すものだった。
「ふふ、可愛らしい方。……ファウスト」
口にせずにはいられなかった親愛の言葉は聞き流されて、顔を上げたファウストを私は真剣に見つめた。
「私の大切な友人であるあなたの願いと、そして、私がいつでも従おうとしている私自身の望みのままに――私は、ネロを支えましょう。
彼自身が飲み込むことで傷ついてしまうだろう経験や、彼の苦手や嫌いなものから、私にできうる限りの方法で、私はネロを守ろうとするでしょう。約束はできませんが、少なくとも、私はそうありたい。痛みの記憶はネロの一部で、それらすべてがかたちづくる彼の優しさを私はとても慕わしく思っていますが、だからといって、その記憶の数を増やしたいなどとはつゆ思いません。端的に、私はネロに傷ついてほしくない」
衒わない言い方で伝えれば、ファウストは、漸く安心したように眉間を開いた。それを目にする私の胸にも、純粋な、原初のような喜びが溢れ来る。私は思わず肩を竦めて、感情を真正面から押し付けるような羽目に陥らぬよう、身体の向きをそれとなく逸らした。
「……ですから、あなたに許していただけて、心底ほっとしていますよ。私が私の心のままに、ネロの心を守るであろうことを」
呟きながらさりげなく作ったグラスを、ファウストの目の前に滑らせる。気付いた彼は眉を下げて、柔らかな微笑みを見せた。
ネロの瞳のようなアンバーの上辺に、ブルーキュラソーをじわっと滲ませた夜明けの色のカクテル。その色をファウストは、こちらの思惑どおりに誰かの姿に重ねてくれたろうか。
「許すとか、許さないとかはないよ。ネロが上手く寄りかかれる相手は僕だけだから――だから、責任を持ってどうにかしてやりたいと思っただけだ」
ファウストの言葉はまっすぐで、上品な笑顔はなにかを隠す仮面ではない。屈託のない恋を抱くいとけない指先は、大人らしい誠実さで、透きとおるカクテルグラスを持ち上げた。
「ありがとう、シャイロック。……その、今回の礼というわけではないんだけれど、僕にもきみのためにできることがあればいつでも言ってくれ。僕だって、力を借りるばかりじゃなく、友人の頼みの一つや二つは聞いてやりたいと思うから」
差し出されたファウストの温かな心を、素直に受け取って、私はあからさまな含み笑いを聞かせてやった。
「おや、それは素敵な申し出ですね。お忘れではないでしょうが、西の魔法使いはお祭り好きで、いたずら好きなんです。ファウストにこれから、どんな甘美で魅惑的で刺激的なおねだりをさせていただこうか……あれこれと考えるだけで、ふふ、心が躍りますよ」
「……〝僕にできること〟ならと言っただろ。お祭りもいたずらも甘美ななんとやらも、その範疇には入ってない。絶、対、に!」
可愛らしくむくれるファウストを揶揄うのはいつだって楽しくて、私はうっかり、この楽しみを味わうのは流石に恋人の特権だったかしらんと悩むのを忘れた。
実際、ファウストには、今までどおりに私の友人でいてもらうだけで充分だった。友人の誠実さを真実、弄ぶような悪趣味は、流石の私でも持ち合わせてはいないから。
ゆっくりと時間をかけて、ファウストは夜明け色のグラスを透明に飲み干した。そうして彼が去っていった後の、真夜中のバーで――この静寂の城の主人は、つい幾日か前、同じこの場所で、自分が誰かに答えて口にしたあの言葉を、燻る紫煙のように思い返していた。
『約束こそできませんが、私はきっとそうするでしょう。私の大切な友人であるあなたの貴い願いと、私がいつでも従おうとしている私自身の心の望みのままに。
――私はファウストを支えるでしょう。彼に一人で無茶をさせないように、彼が自分自身を犠牲にするような選択をしなくて済むように、私は私の持てる限りの力で、ファウストの役目を助けましょう。たとえあなたの目や手の届かぬ場所であっても、私がそこにいる限り、彼をけして一人にはさせません。あなたの愛する恋人を、私の大切な友人を、私は――ネロ、あなたと共に、彼の心を守りたい』